近代社会の歯車

正式の講義名は学内の事情で若干異なりますが、半期科目(2023年9月18日~1月22日:月曜日1時限目)として、私の専門に近いところを教えます。イギリスの大西洋奴隷貿易とそれに関連した話題です。

第1回目の授業は、全体の流れ(いわば目次)を解説します。(教科書は明星LMSの当該科目の「コースコンテンツ」に登録されています。ここでは、第1回目の授業だけ、公開します。)


近代社会の歯車 : 奴隷制、商業活動、金融業



1)大航海時代

大航海時代は15世紀のエンリケ航海王子の西アフリカ探検、ジェノヴァ出身のコロンブスによるアメリカ踏査、1500年のカブラルのブラジル発見などの話を扱う。

ポルトガルはアフリカの北岸、セウタというムスリムの町を、1415年に占領して、ジブラルタル海峡の制海権を奪取した。その戦いに従軍していたエンリケ航海王子は1420年頃からアフリカ西岸の探検航海にでかけて、アゾーレス諸島、マデイラ諸島、カナリア諸島、カボ・ヴェルデ諸島などを次々と植民・開拓していった。エンリケが一人で行ったのではなく、時には敵対的勢力も含めて、多くの競争者がアフリカ交易に参加した。中でも、ジェノヴァ人やフランドル人がこの開発に参加していた。

1480年代にはインドへの航路開発も始まり、16世紀には、香辛料交易をめぐる競争関係も激しくなった。当時、ヨーロッパには香辛料がインドからペルシア湾や紅海を通って、シリアやエジプトを拠点とするムスリム商人の手を経て、陸路、輸入されていた。そこから地中海を越えて、ヨーロッパに香辛料が運ばれた。特にエジプトのアレクサンドリア経由でヴェネツィア商人の船団が独占的に地中海の香辛料交易を仕切っていた。

2)ジェノヴァ資本

ジェノヴァはヴェネツィアに軍事的に負けたこともあって、大航海時代に地中海の東部とは交易しても、香辛料はあまり扱わなかった。ジェノヴァが手に入れたのは、明礬である。明礬は毛織物の媒染剤としてフランドルやフィレンツェに売れた。明礬はアナトリア半島の西部、フォケーアで手に入った。この近くにキオス(ヒオス)と呼ばれる島があり、ジェノヴァは14世紀初頭からこの島を統治するようになった。

キオスを経由して、ジェノヴァは黒海貿易にも参入した。1261年にビザンツ帝国がコンスタンチノープルに返り咲くことに貢献したジェノヴァは黒海との貿易も有利に進めることが可能になり、黒海の北部、クリミア半島にカッファという交易基地を手に入れることに成功した。カッファが最も有名になったのは、黒死病である。カッファを出港したジェノヴァ船に黒死病を媒介するネズミが乗っていた。1347年から2~3年、地中海全域と北はバルト海方面まで、黒死病が蔓延して、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカの人口が3分の1ほど、減少してしまった。

ジェノヴァやヴェネツィアは十字軍(1096~1291年)に参加して、レヴァント(Levant)でサトウキビや綿花の栽培技術を手に入れた。ジェノヴァやヴェネツィアの商人達は地元の労働者が生産した綿花・綿織物、砂糖を扱って、利益をあげることを覚えた。最終的には、マムルーク朝の攻撃によって、十字軍はレヴァントから追い払われたが、地中海の島々、キプロス島やクレタ島、そして、シチリア島で、サトウキビ栽培や綿花の生産を続けた。

砂糖と綿花の生産に奴隷が利用されたかどうかは、詳しくは分からない。多くは農奴等の、地元の労働者が生産に従事したものと推測される。しかし、当時、ムスリム商人だけでなく、イタリア商人による奴隷貿易も盛んに行われるようになっていた。イタリア商人が扱った奴隷の多くは黒海からやってきた。

ジェノヴァのカッファや、ドン川河口のヴェネツィアのターナを基地として、黒海周辺の住民が奴隷として輸入された。ロシア人、モンゴル人、チェルケス人等が奴隷として輸入され、農業労働者または家内奴隷として販売された。家内奴隷の多くはイタリア商人が購入したと言われる。

3)商人仲間団体

中世の遠隔地商業を実行するために、一人の商人では危険が大きすぎるので、複数の商人が集まって、ソキエタスやコンメンダを結成して、一つの運命共同体が作られた。もちろん、商人団体の一つにすぎないので、それらは金銭にかかわる範囲での運命共同体にすぎない。金を預けてもいいと信用できる、最初の相手は親子や兄弟であったので、当初は、そのような血族に近い範囲で仲間集団が作られた。しかし、全く血筋とは関係がない人々とも、信用ができそうであれば、仲間団体として結合することはあったようである。そして、確実にその仲間が増えていった。

商人団体の場合には、危険分散の意味合いが大きい。一つの事業に投資した場合、海賊や悪天候によって、その事業が失敗することも多かった反面、海外との取引は大きな利益を生む可能性も高かった。事業を継続できるようにするためには、少しでも危険分散ができたほうがいい。まだ株式投資は始まっていないが、一つの事業(艤装した数隻の船団)を持分に分割する形での投資が始まった。

商人の仲間団体の他に、マオーナという植民地の経営を請け負うような仲間団体も作られたし、それが都市の公債を引き受ける活動にも手を出した。他の国々で国王が債務を負うのと同様、都市が一つの経済的共同体(事実上の法人)を作ったため、都市が債務を負うことも可能になった。公債の引き受けになると、危険分散というより、「税金」で補填してもらうという意味で、確実な利益を得るために、たがいに都市の借金を引き受ける、という形式になる。

4)利子の禁止

ヨーロッパは1077年のカノッサの屈辱に象徴される聖職叙任権闘争の時代に、君主の法(世俗法)とローマ教皇の法(カノン法)が分かれ始めた。その戦いに勝利するため、聖職者は古代ローマの市民法(jus civile)を研究し、それをゲルマン法などの地元の法と整合性をもたせながら、世俗君主との戦いに利用するようになった。ローマ法継受が始まった。イタリア人(ランゴバルド人+東ゴート人+ラテン人等)にとっては、古代の祖先(ラテン人)の法を復活させるか、あるいは、古代ギリシアの伝統も取り込んだビザンツ帝国の法を学ぶ意味があったのかもしれない。

聖職者たちの研究の一環で、利子の取得もカノン法的に拒否されるようになった。利子の禁止にはさまざまなキリスト教的な理由がつけられたが、西洋だけでなく、世界中の学識者(士大夫、ウラマー等)は、中世のこの時期に利子を禁止するのが当然であると考えていた。

逆に、商人や金貸しは、利子をとるのが当たり前であって、利子がとれなければ、金を貸すつもりはなかった。現実に、金は借りる必要があるときがある。貧しい人たちは一時的な収入減少をまかなって、生活費を捻出するために、金を借りた。イタリアでは、質屋が誕生した。質屋で利子をとることが正義であるか。教会でさまざまに議論された。

裕福な人も、金を借りた。事業資金を捻出するため、あるいは、もっと裕福になるために投資資金として。

利子はなぜ課されるのか。これは、現代でも、ヨーロッパの経済学者の「言い訳」は中世のこの頃の議論と、あまり違いがない所もあるほどに、徹底的に議論された。「言い訳」ではなく、利子が課されるのが当たり前の社会での議論の仕方の点だけが、現代の経済学者と当時の議論が違うとも言えるほど、利子取得の口実が整備された。

ローマ教皇インノケンティウス3世(1198-1216)の時代に、教皇権が最高に強力になったと言われるが、その時代には、カノン法も整備され、特に聖職者はカノン法体系の中で生活することになった。他方、カノン法の影響を受ける形で君主の法の整備が進み、その中で一般人は生活した。ローマ法体系と慣習法の統合が進んだ。ローマ法がcivil law(市民法、民法)と表現されるように、経済的な制度はローマ法の影響下で整備された。英国の共通法(common law)はラテン語で jus commune(普通法、または、コムーネの法) と書かれる。イタリア都市がコムーネである。

ヨーロッパではローマ法を土台にして、普通法という形式で、契約、投資、保険など、民事的な法規範が整備されるようになったという理解の仕方もある。なお、辞書的に説明すると、civil lawの対義語は、民法(civil law)に対してcriminal law(刑法)であるが、ローマ法(civil law)に対しては万民法や自然法、そして、大陸法(civil law)に対しては英米法(common law)や教会法(ecclesiastical law)になる。

5)リヨンやアントウェルペン

中世都市は、現代と同様に、その繁栄は政治の動きに左右される。ローマ教皇は、ローマではなく、南仏のアヴィニョンに教皇庁を置いたことがある。1307~1377年の間である。

この時代に、ローヌ川の河口近くのアヴィニョンから遡って、内陸・北方へ230kmほど行った所にあるリヨンが商業的にも繁栄することになった。ローマ教皇庁はヨーロッパ中の富を集めた宮殿が置かれているような場所なので、そこに行くための陸路の結節点として、リヨンが大きな役割を果たした。

シャンパーニュに代わって、リヨンに遠隔地商業が集まり、ここで為替が決済された。

同様に、政治の動きに左右された都市として、アントウェルペンをあげることができる。フランス国王と同等以上に強力であったブルゴーニュ公はネーデルラントの君主でもあった。15世紀の終わり頃、彼の娘と、ハプスブルク家の王子が結婚した。娘は早死にしたため、ハプスブルク家がブルゴーニュ公の領地の一つ、フランドルを経営するようになった。フランドルの商人はブルゴーニュ公への帰属意識は持っていたが、ハプスブルク家を嫌った。両者は戦争状態になり、ハプスブルク家のマクシミリアンがフランドルの軍人=商人に捕まるという、屈辱を味わったこともあった。

そのため、彼はヨーロッパ中の商人に布告を出して、フランドルに行くことを禁じ、アントウェルペンに集まるように命じた。ポルトガルの商人は香辛料をアントウェルペンに輸出し、その香辛料を求めて、南ドイツの銀鉱山の経営者たちがアントウェルペンに集まり、その富を求めて、イギリスの羊毛商人がアントウェルペンに羊毛を卸した。アントウェルペンが16世紀の間、ヨーロッパの商業の中心地として栄えた。

6)チューリップ恐慌とアムステルダム銀行

アントウェルペンに集まっていた商人は、ネーデルラント独立戦争(1568~1648)の間に、アムステルダムなど、ネーデルラントの北部に移住するようになった。アントウェルペンに多かった新教徒の多くがオランダに移住したため、それまで農民=カトリック教徒が多かったオランダに新教徒が集まることになった。

オランダは16世紀終わりに、その結果、商業的な発展を開始した。オランダの漁民はバルト海に出向いて、ニシンをとっていたが、北海でも大量にとれるようになったので、オランダがハンザ同盟を凌駕して、ニシン漁の中心国となった。

商人はニシンを確保するため、特定の優秀な漁民となるべく早く提携して、多くのニシンを手に入れようとし、他方、漁民も大漁・不漁に関わらず、安定的な利益が得られる手法を望んでいた。オランダ商人が考えたのは、先物取引であった。1610年代までに先物取引市場がオランダに生まれていた。

先物取引を利用した投資も始まった。オスマン帝国は16世紀の間、まだ、ヨーロッパ各国を凌ぐ最強の帝国であった。神聖ローマ皇帝カール5世はオスマン帝国に負けた。フェリペ2世はようやく1571年のレパントの海戦で勝利できた。その意味で、オスマン帝国に徐々に陰りが見え始めたとはいえ、ヨーロッパの商人はオスマン帝国との取引を望み、継続していた。香辛料もその一つである。

1517年、ルターが宗教改革を始めた年、オスマン帝国はマムルーク朝エジプトを倒して、エジプトを手に入れた。エジプトやシリア経由の香辛料交易は、オスマン帝国がおさえた。オスマン帝国がエジプト近海をおさえたおかげで、ポルトガルに奪われていたヴェネチアの香辛料交易が復活した。

そのオスマン帝国でチューリップの栽培が流行っていた。オランダ商人はオスマン帝国からチューリップを輸入した。輸入だけでなく、品種改良も始めるようになった。1636年には、先物取引と同様に、まだ花を咲かせるかどうかもわからない球根が、不動産と同等の価値で売られるほどにまで、投資熱が膨らんだ。ヨーロッパで初めてのバブルがはじけた。現代の価格で言うと、数千万円で取引されていたチューリップの球根が一気に正常に戻り、数百円でしか売れないものになった。投資熱の最後に買った者は大損した。

このような「投機」熱は、それ以降も、忘れた頃にやってきた。2008年もそうである。歴史を見下す理論家は多い。社会システムの病巣を叩く、のではなく、多くの理論家は病巣はないと言いたがる。悪いのはシステムではなく、賭け事に浮かれ騒ぐ人たちである、と。彼らが賭け事を閉じ込めるシステムを考えることはない。

7)西インド会社

オランダの商人は1602年に東インド会社、1621年に西インド会社を結成した。東インド会社はイギリスの東インド会社に対抗して結成され、その十倍の資本で、イギリスを圧倒した。

1618年から始まったドイツ三十年戦争に、オランダは参加した。オランダの敵はドイツ、ではなく、スペインである。スペインからの完全な独立を獲得するために戦い始め、実際に、三十年戦争の平和条約であるウェストファリア条約でオランダ(ネーデルラント)の独立がスペインからも認められた。

オランダの商人はその戦争を有利に戦えるように西インド会社を結成した。東インド会社設立の功労者であるオルデンバルネフェルトは、1619年にマウリッツに処刑された。オルデンバルネフェルトを支援していたグロチウスは亡命した。マウリッツのような戦闘的な商人・貴族が中心になって、1621年に西インド会社が結成された。西インド会社はスペイン領へ植民地への攻撃を一つの目的としたが、商社でもあるので、戦争だけでなく、利益が得られる活動に従事した。当時、スペインは1580年から、ポルトガルと同君連合国となっていて、フェリペ2世は陽の没することのない大帝国を手にしていた。

オランダはスペイン領だけでなく、ポルトガル領も狙った。その一つが、西アフリカである。西アフリカのポルトガルの基地が徐々にオランダに奪われていった。西アフリカから、ポルトガルやスペインは、黒人奴隷を輸入していた。コンゴからサン・トメ島経由でブラジルに輸出される奴隷貿易をオランダ西インド会社は狙った。

ブラジルへの攻撃も始まった。1620年代の間に、西インド会社はブラジルの一部を確保することに成功し、1650年代まで、ブラジルの砂糖生産の多くを西インド会社が運営するようになった。

実際に運営した商人の多くは、新キリスト教徒(セファラディム)であったと言われる。新キリスト教徒は、ポルトガルにいたユダヤ教徒で、半ば強制的にキリスト教徒になっていた人たちである。中には、ポルトガルから逃げて、オランダやフランクフルトに亡命した新キリスト教徒(元ユダヤ教徒)も大勢いた。

フランクフルトに亡命した元ユダヤ教徒のおかげか、フランクフルトはヨーロッパの金融の中心地となった。フランクフルトの出身者として有名なのが、19世紀に世界の金融を牛耳ったロスチャイルドである。

ポルトガル時代にブラジルに移住した新キリスト教徒と、オランダに亡命した新キリスト教徒が助け合って、ブラジルのサトウキビ農園が経営された、と図式化することも、もしかしたら、可能かもしれない。

8 サー・ジョン・ホーキンズと私掠船への投資

イギリスはエリザベス女王の時代に、フェリペ2世に対抗するかのように、世界への進出を始めた。エリザベスより前、1550年代には、イギリスはモスクワ経由でアジアに行こうとしたが失敗した。

1560年代にアフリカ探検も始まり、その中で、ジョン・ホーキンズが西アフリカから西インド諸島に黒人を奴隷として輸出したという、イギリス人としては初めての大西洋奴隷貿易も含まれる。

ホーキンズの愛弟子の一人、ドレークはイギリス人として、初めて世界一周を達成した人物で、彼は途中、スペインの銀船団を攻撃して、かなりの損害を与えた。そのため、ドレークが帰国したとき、エリザベス女王はスペインの大使からドレークを差し出すように言われた。女王はうまくその場を取り繕って、ドレークにサーの称号を与えた。

エリザベスは海賊女王と呼ばれるが、違法な海賊(pirate)ではなく、国王が認めた海賊、すなわち、私掠船(privateer)の女王というのが、正しい表現になる。エリザベスの治世で私掠船の形式が整った。私掠船の船長は自分が受けた損害の賠償を求めるため、イギリスの海軍法廷に提訴して、損害を与えた商人に対する攻撃許可をもらう。海軍法廷が私掠免許状を発行することで、海賊行為が私掠、すなわち、合法的な実力による損害賠償行為となった。

イギリスの資金はこの時期にさまざまな組織への投資に回った。東インド会社、レヴァント会社、モスクワ会社、そして、私掠船団の船長への投資である。投資家の多くは商人であるが、中には、貴族・ジェントルマンも含まれていた。ジェントルマンたちは、この頃から、一つの集団として、ジェントリと一括されるような階層を作り上げ、イギリスはジェントルマンの国になった。

9   ギニア会社

イギリスは1618年、ギニア会社を結成した。それまでも西アフリカに進出する合本事業は組まれていたが、ギニア会社より前の事業は資料がほとんど残っていなくて、詳しいことはわからない。ギニア会社の資料も、数十枚の資料しかないが、それらから、最低限の歴史を見ることができる。

17世紀前半には、3種類の商人が互いに競っていた。中世から続くマーチャント・アドヴェンチャラーズは、16世紀のネーデルラントの独立戦争によって、やや落ち目になっていた。1601年に結成された東インド会社は市民革命の時代まで、商人層の中心的な派閥を結成していた。それに対抗して現れてきたのが、植民地商人と言われる商人達である。

ギニア会社の中の主流派は王党派に近く、その意味で、東インド会社にも近かったが、彼らに押されながら、自分の利益をもぎ取ろうとしていた商人層が植民地商人と言われる人たちである。イギリスの植民地は2つ作られていた。一つは北アメリカで、ここには、のちにアメリカ合衆国が生まれる。もう一つが西インドである。当時は、西インドで、アメリカを指していたが、西インド諸島、現在のカリブ海の島々に、イギリスは植民地を作っていた。

これらの植民地とアフリカを結ぶ、黒人奴隷貿易も徐々に始まっていたようであるが、まだ、この時期は盛んではない。しかし、市民革命の時代、国王を処刑した商人派閥は植民地商人であると言われる。

10 航海法と独占貿易

オランダとの経済競争は市民革命時代に航海法として、結実した。植民地商人がオランダを排除したかった。イギリスの重商主義政策は彼らが作り上げた。それまでの国王が利益を得られる国家ではなく、一部の国民が利益を得る国粋主義が始まる。

重商主義は自由貿易ではない。オランダに対抗して、国家に経済的利益を守ってもらう貿易活動である。国家が積極的に経済に介入するようになった。独占貿易という形式での介入は、当座は、西インド諸島の産物の独占交易(国内商人の利益を考えた交易手法)であったが、のちには、会社形式として南海会社という形で典型的に発展する。

南海会社はスペイン継承戦争中に生まれた、いわば国策会社である。国策といっても、当時はまだ現代のような「国」があるわけではなく、国を牛耳っていた政治派閥が作った会社である。南海会社はスペイン領植民地との交易で儲けを出そうとしていた。そのためには、スペイン領植民地との独占的な奴隷貿易が手に入ると都合がいい。結果として、イギリスはユトレヒト条約で、奴隷貿易の独占権(アシエント)を獲得した。

南海会社はしかし、奴隷貿易をうまく実行できなかった。当時、イングランドで奴隷貿易に従事していたのは、王立アフリカ会社である。南海会社は短期的な利益を得るため、国債の取引に手を出した。

1719年に、国債の引き受け競争で、イングランド銀行と争って、南海会社が国債引受を一手におさめた。その結果、利益がえられるのではないかという甘い見込みが市場関係者に生まれるようになり、南海会社株が徐々に上昇してきた。株式投機によって利益を得た人の中には、何をするのか、よくわからないような株式会社を作る者も登場して、投機熱は一気に沸騰した。物理学者のニュートンでさえ、この熱狂に巻き込まれたと言われる。

しかし、投機は一瞬で終わった。10倍以上の高値を付けていた株式が元の株価の半分にもならないほどに、暴落した。この国家的大事件を収めた人物がその後、約20年間イギリスを統治することになる初代首相ウォルポールである。

南海泡沫事件(South Sea Bubble)があったので、破産して、人生を失うのではなく、再起をかけるチャンスを与えるための法律も作られるようになった。

11 王立アフリカ会社

イギリスは市民革命後、王政復古の時期に、アフリカ交易を活性化させるための独占交易会社を作った。あまりうまく行かなかったので、改組してできたのが、王立アフリカ会社である。

王立アフリカ会社の総裁をヨーク公が務めたことがある。海軍提督でもあったヨーク公はのちのイングランド国王ジェームズ2世である。ヨーク公はオランダとの対抗を重視し、ニューアムステルダムを奪取した。そのため、オランダとの第2次英蘭戦争(1665~ 67)が始まった。

英蘭戦争はどちらかというとオランダの勝利に終わったが、イギリスはニューアムステルダムの確保には成功した。都市の名前は、海軍提督に敬意を表して、ニューヨークと改称された。

王立アフリカ会社はその後、黒人奴隷貿易で利益を得たが、これに参加したい商人達が、独占貿易会社への攻撃を始めるようになった。アフリカ交易の「独占」は国内の特定の商人だけに交易を許可する政治的「独占」である。近世社会では世界中でこのタイプの商業独占権が商人団体に与えられている。その一つである。

王立アフリカ会社の経営方針に従うことができる商人は、入会金を払って、その派閥に潜り込んだであろう。しかし、入会金を払うだけの資力はないし、コネもない商人も、勝手にアフリカで黒人を奴隷として購入することは可能であった。しかし、アフリカとの交易は、王立アフリカ会社の商人だけに許可されたものであったので、その独占権を利用して、さまざまな嫌がらせが行われた。独占権を無視する商人は法廷闘争にも巻き込まれた。

そのため、アフリカ交易の独占権の廃止を求める運動が活発になり、1713年に、かなり独占権が廃止された。その頃から、ロンドン商人ではなく、ブリストルの商人も奴隷貿易に手を染めるようになった。最終的に1750年に王立アフリカ会社の解体が決定されるが、その結果、一挙に、リヴァプールの商人層も、奴隷貿易に参加するようになった。産業革命の輸出港が奴隷貿易とつながった。

12 財政革命 

1690年代は財政革命の時代であると言われる。1694年にはイングランド銀行も設立された。

イングランド銀行はまだ中央銀行ではない。各地に生まれた銀行の一つであると同時に、地方銀行の一つでもある。ただし、ロンドンの中心部に、政権の中枢が利用する組織として作られたので、ほとんど中央銀行のような顔で運営された。

イングランド銀行が紙幣を発行する代わりに、国債を引き受けるという大きな役割を担うようになった。紙幣の発行額と国債の引受額はほぼ連動した。国家(というより、この時期は、まだ国王)の借金を成功させるために作られたのがイングランド銀行である。

イングランド銀行に集まったのは、スコットランド人が多い。スコットランドは1707年にイングランドと合同して、一つの国になるが、まだ、この時期は別の国であった。しかし、アダム・スミスもスコットランド人であるように、18世紀前後の時期には、スコットランド人が経済思想を発展させた。

地方銀行も各地に生まれた。18世紀の半ばまでは、地方銀行が独自の資金調達や精算事業を行っていたが、18世紀後半には、多くの銀行の間でコルレス契約(correspondent arrangement)が結ばれて、互いに精算する形式が定着した。コルレス契約は銀行相互間の為替取引契約である。精算するときに、イギリス経済の中心であるロンドンに置かれたイングランド銀行が中心になることが多く、産業革命期にイングランド銀行券が全国に普及するようになった。それ以前は、地方では地方銀行の銀行券が流通していた。

のちに、1844年、イングランド銀行の銀行券だけが、唯一の独占的銀行券として認められるようになり、イングランド銀行が中央銀行になった。

18世紀末から19世紀の初め、大西洋奴隷貿易の廃止を進めていった集団(国教会福音派のクラパム派)の中に、ソーントンという人物がいた。ヘンリー=ソーントン(Henry Thornton:1760-1815)は中央銀行が最後の貸し手になるべきであると主張したことで有名な金融理論家である。奴隷制といったあまり道徳的に好ましくない事業を嫌い、どちらかというと道徳的に正しいと言われる事業を好む人たちに、金融業者が多い。必ず、ではない。

雑学 : ロスチャイルドの末裔の一人で、この時代の経済史の研究者で、アマルティア・センの妻となっている人物(Emma Rothschild)もいる。

13 ジャマイカ

イギリス市民革命の時代に、イギリスはスペイン領のジャマイカを狙った。1655年、クロムウェルが派遣した海軍はジャマイカの占領に成功して、以後、ジャマイカが西インド諸島の中で、最大のイギリス植民地となった。

ここに黒人奴隷が大量に輸入されるようになり、本格的な奴隷貿易が開始された。

ジャマイカは当初、海賊の基地にもなったほどであったが、海賊の掃討に成功した後、サトウキビ栽培が成功した。サトウキビ栽培は14世紀から繰り返された、島を植民地として開発する際の、一つの成功パターンである。

ジャマイカで成功したプランターはイギリス本国に戻って、その富をひけらかすほどになった。中でも有名なのが、『ヴァテック』で有名なウィリアム・ベックフォードの、同名の父親、ベックフォードである。

ジャマイカで最大のプランターとなったベックフォードはイングランドに戻って、土地を買い、地主として政界にも進出した。地主やジェントリしか、政治の世界には入れなかった時代である。

ジャマイカ等からイギリスに帰国した元プランターの一部は砂糖交易を仕切る商人となった。彼らは委託制度(commission system)を整備して、プランターが送ってくる砂糖を代理販売し、その利益で、プランターが要望した商品を購入して、プランターにさまざまな商品を送った。

元プランターの砂糖貿易商はイギリスと西インド諸島の2点交易に従事した。そのため、当時、奴隷貿易に参入していたリヴァプールの商人はしばしば奴隷をカリブ海に輸出したあと、バラス(船の重しになる石)を積んでイギリスに帰るしかない状態に陥っていた。奴隷貿易が三角貿易と表現されることもあるが、国家としては三角になっても、リヴァプール商人として、最後の辺はロンドンの砂糖貿易商に奪われる結果になっていた。

商業も政治的な力関係で決まることが多い。

奴隷貿易は1807年、奴隷制は1833年に廃止された。その後、イギリスは年季契約奉公人を求めて、インド人や中国人を労働力として、利用するようになった。彼らは苦力(クーリー)と呼ばれる。

1833年、奴隷制廃止で奴隷解放された黒人には、奴隷としての苦労をねぎらうための、何らかの補償金など、一切なかった。彼らを待ち受けていたのは、自分で職場を探さないといけない賃金労働者という地位(失業の可能性が高い)か、年季契約奉公人(ほとんど奴隷状態)であった。

それに対して、奴隷主(地元のプランターだけでなく、イングランド在住の寡婦層も)は多額の補償金を獲得した。プランテーションという土地を購入し、奴隷という商品を買って、利益を得ようとしていたのに、それを手放さないといけないからである。所有した者に手厚く、所有された者には厳しく、所有権の法理が運用される。これが現代まで続く所有権制度の実態である。

雑談 : 経済学者は所有権は大好きらしい。所有権を認めないと、市場が崩壊すると思い込んでいる。単に、自分たちの「たかり」根性を満足させているだけの場合も多い。所有権制度は形を変えた身分制度にすぎない。

14 海上保険:ロイズ・オブ・ロンドン

奴隷貿易を遂行するために、リヴァプール商人は互いに海上保険をかけていた。中でも有名なのが、ゾング号事件である。リヴァプール船籍のゾング号の船長は、西インド諸島に近づいたとき、かなり体力が弱くなった奴隷達を海に棄てた。海に棄てるという行為が海損にあたるかどうかが、裁判になった。

航海中、水分が足りなくなったとき、他の馬を助けるために体力が弱くなった馬を海に棄てることが許される。人間を棄てていいか。裁判では、「人権」は争われなかった。黒人は馬並みに扱われた。海に棄てる、という判断が損害を補償する保険として正しかったかどうかが争われた。海上保険の問題である。保険業者が保険を支払わないといけないのか、それとも、奴隷船の船長達は棄てたことに保険がかからないで、ただ損をするだけであったのか。この保険の問題は、現代でも、似た問題として続いていると指摘する論者もいる。労働者に保険をかけて、労働者の代わりに企業がその保険金を獲得する、というものである。

ゾング号事件の場合は、奴隷船の船長も、保険業者も、どちらもリヴァプール商人であった。しかし、当時、17世紀の終わり頃から、海上の保険業者として、ロイズ・オブ・ロンドンが生まれていた。この組織(会社ではなく、保険業者が集まった団体にすぎない)は、現代でも、世界の保険業界を席巻している組織として続いている。