アミスタッド号事件

スピルバーグの映画で有名になったアミスタッド号事件

1997年に制作された『アミスタッド号』(スティーヴン・スピルバーグ監督)は、1839年に生じた奴隷反乱を扱った映画である。この映画との関連で、2000年に、『アメリカ史雑誌』(The Journal of American History, vol.87, no.3, Dec. 2000)で、アミスタッド号で生じた奴隷反乱の指導者であるジョセフ・シンケ(Joseph Cinqué:メンデ語(シエラ・レオネ)名でセングベ・ピエ, Sengbe Pieh)の評価に関する論争が掲載された。一言で要約すると、従来、映画と同様に、アメリカ史の標準的な教科書では、シンケは解放後、奴隷貿易に従事したとなっているが、実際に、シンケが奴隷商人(slave trader)になったかどうかは不明であり、その点に、この論争の参加者全員が同意した、というものである。


まず、アミスタッド号事件がどのようなものであるのかを、『マクミラン世界の奴隷制百科』(Paul Finkelman and Joseph C. Miller (eds), Macmillan Encyclopedia of World Slavery, vol.1, 1998)で見てみよう。この百科事典のアミスタッド号事件(Amistad)の項を執筆したのは、上記の論争を提起したハワード・ジョーンズ(Howard Jones:アラバマ大学歴史学教授)である。 1839年7月1-2日未明、帆船(coastal schooner)アミスタッド号がキューバ島の北方を航行中に、西アフリカ・メンデ族のジョセフ・シンケが53人の奴隷を率いて反乱をおこした。反乱者は船の乗っ取りに成功して、2人のスペイン人奴隷所有者、ホセ・ルイスとペドロ・モンテスに命じて、船をアフリカに向けさせようとした。しかし、60日の迷走ののち、アミスタッド号はニューヨークのロング・アイランド沖にたどり着いた。その時に、生き残っていたのは、43人であった。成人男性の奴隷が39人、子供が4人(9才以下の女子が3人)であった。

合衆国海軍船ワシントン号の大尉(lieutenant)、トーマス・ゲドニ(Thomas Gedney)はアミスタッド号を拿捕して、積み荷を引き揚げた。奴隷制反対論者はこの事件を法廷で取り上げることにした。ニューヨークの裕福な事業家タッパン(Lewis Tappan)が「アミスタッド委員会」を引き受け、コネチカット州の弁護士(attorney)、ロジャー・ボウルドウィン(Roger Baldwin)が黒人たちを擁護して、「誘拐されたアフリカ人」として、その解放を要求した。ボウルドウィンは、彼らはキューバ生まれの奴隷ではないと主張した。キューバの奴隷制は合法的であったが、1820年に締結されたイギリスとスペインの条約で、アフリカ人の奴隷貿易は非合法となっていたのである。

スペイン政府は、スペインとアメリカの間で締結された1795年のピンクニ条約(Pinckney's Treaty)に基づいて、奴隷のキューバへの返還を要求した。その条約では、不可抗力で他国の港に到着した船舶は返還すると決められていた。民主党所属の合衆国大統領、ヴァンビューレン(Martin Van Buren:1837-41)は次期大統領選で有利に闘えるように、そして、反奴隷貿易条約違反を口実に英国がキューバに介入してくるのを恐れて、スペインの要求に従おうと考えていた。

ボウルドウィンは法廷で勝利をおさめたが、大統領は最高裁に上告した。最高裁判事9人中5人は南部出身で、奴隷所有者であった。廃止論者はリパブリカン党の元大統領アダムズ(John Quincy Adams:1825-29)の応援をえた。アダムズは73才で、耳も遠くなっていたが、独立宣言に記載された自然権の原則から黒人の解放を主張した。

1841年3月9日、判事ジョセフ・ストーリ(Joseph Story)は拘禁者の釈放を命じた。合衆国では奴隷制は合法的であるが、彼らはキューバの奴隷ではなく、アフリカから誘拐された者たちである、という判断であった。1842年1月に、35人の黒人がアフリカに帰国した。ホイッグ党の大統領、ジョン・タイラー(John Tyler:1841-45)はヴァージニア州で奴隷を所有していて、帰国のための資金の提供を拒否したが、アミスタッド委員会は教会や元捕虜たちの協力を得て、帰国の資金を調達した。アミスタッド委員会はアメリカ宣教団(American Missonary Association)の基(もと)となった。


『アメリカ史雑誌』で論争になったのは、釈放されたシンケが帰国後、奴隷貿易に従事することになったのか、という点である。帰国後、彼が妻子と再会できたのかどうかも、不明であり、妻子も奴隷として売られてしまっていたという説もある。

論争の提起者、ジョーンズ('Cinqué of the Amistad a Slave Trader? Perpetuating a Myth', J.A.H, pp.923-939)によると、さまざまな側面を考慮すると、帰国後、奴隷商となったという主張がなされてきたが、その証拠はないので、その点、シンケは無罪と推定され、シンケを釈放する時が来た。

従来の常識は次のようなものであった。モリソン(Samuel Eliot Morison:ハーバード大学の歴史家)は『オックスフォード:アメリカ人の歴史』(The Oxford History of the American People, New York, 1965、ペンギン・ペーパーバックで利用可)で、アミスタッド号の「皮肉な結末で、シンケは故郷に戻って、奴隷商となった」(p.520)と主張した。奴隷商になったとする説を初めて出したのは、オーウェンズの『奴隷叛乱』(William A. Owens, Slave Mutiny: The Revolt on the Schooner Amistad, New York, 1953)という小説である。しかし、オーウェンズの娘の許可を得て調べたら、彼は原史料にあたっていなかった。物証はないが、Samuel Eliot Morison, Henry Steele Commager, and William E. Leuchtenburgの『共和国アメリカ史概説』(A Concise History of the American Republic, New York, 1983)など、大学の教科書としても利用されている書物で、シンケが奴隷商になったことが紹介され、それが教師の常識になってしまった。

映画監督のスピルバーグが頼っていたのは、エイブラハム教授(Arthur Abraham:シエラ・レオネ大学)と、その著書、『植民地時代のメンデ政府と政治』(Mende Government and Politics under Colonial Rule, 1978)であった。エイブラハムによると、メンデでは奴隷は時間を限った隷属にすぎなくて、たとえば、借金が返済できるまで子供が家内奉公人(という形式の奴隷)になるというものであった。メンデ社会では、奴隷は労働力の供給源、通貨交換手段として重要であり、奴隷奉公先の拡大家族の一員となり、その家族の財政的義務も果たした。その点、アメリカ南部とは異なる。そのため、メンデの奴隷の中には、有力な家族の一員として、司法の権限を持つ者もいて、自由人の処刑判決を下す者さえいた。

それに対して、モリソンの世代は奴隷制を慈悲によるものと見ていた。モリソンは『オックスフォード・アメリカ人の歴史』で次のように述べている。ニグロはその適応力や陽気な性格のうえに、過酷な労働に対する能力のおかげで、優秀な奴隷になったし、南部の奴隷所有者はそのようなものとしてニグロを理解し、奴隷として愛した。アフリカからアメリカに輸送された、奴隷制の犠牲者は中間航路を生き残れば、アフリカで隷属状態にある者たちより暮らし向きがよかった、と。

従来の見解に対するジョーンズの批判に対して、Paul Finkelman(タルサ法学院大学)、Bertram Wyatt-Brown(フロリダ大学)、William S. McFeely(ジョージア大学)はそれぞれの立場で、シンケが奴隷商となったかどうかは、資料的な裏づけがないという点に同意した。しかし、シンケは奴隷商にはならなかったと言いたげなジョーンズの論説に対しては、さまざまな反論をあげている。

中でもフィンクルマンの論点は傾聴に値する。ジョーンズは、奴隷としての拘束を受けそうになったシンケが帰国後、奴隷商になるはずがない、と主張しているが、歴史上、エジプトから解放されたヘブライの奴隷、あるいは、古代ローマの奴隷やアラブ世界の奴隷などでも、実際に、奴隷身分から解放されたのちに、奴隷所有得者になったものがいるので、シンケも奴隷商になった可能性を否定できない。さらに、メンデ社会は奴隷制が機能していた社会なので、シンケが奴隷を所有しなかったと考えるほうがおかしい。さらに、アメリカ伝道団はシンケ以外の反乱者のその後を報告しているのに、シンケの報告が失われているとすると、それは、むしろ、伝道団にとって都合が悪い事実(たとえば、シンケが奴隷商として活躍したという事実)があったためではないか、という疑いさえもたれる。ジョーンズの厳格な実証性には敬意を表するが、シンケは悪いことをしなかったと思わせるような論点に関しては、むしろ、逆であって、西アフリカの当時の状況を考慮すると、現代の歴史学や現代のアメリカが欲している欠点のない英雄に対する渇望を、ジョーンズは示しているだけではないか。


歴史は物語・小説ではない。過去の事実である。しかし、しばしば歴史家は物語ることを選んでしまいがちである。メンデに帰国したのちのシンケの記録がほぼ存在しない状態で、伝聞に基づいて、あるいは、小説家の説を信じて、シンケが奴隷商になったと断じてしまった歴史家の態度は反省すべきものであろう。ジョーンズの実証性はこの点、大いに評価できる。

しかし、同時に、フィンケルマンが指摘しているように、自分の興味や関心から、ある対象を自分と同じものと見てしまいがちな態度は、ジョーンズも批判を受けざるをえない。シンケが奴隷商となったのは、ジョーンズやアメリカ宣教団にとっては、悪いことであり、黒人が黒人を売りさばいていた歴史をアメリカの黒人は見たくないかもしれないが、事実は事実である。シンケが奴隷商になったと断じてしまった歴史家と同じ過ちを、ジョーンズも犯しているのかもしれない。史料(事実)と推測(視角)との区別は、しばしば困難であるが、それに挑戦するのが歴史家の役目であろう。シンケは奴隷商になったのかもしれないし、ならなかったかもしれない。タイムマシンでしか、事実は確認できない。


映画評論

テッサ・モーリス-スズキ(田代素子訳)『過去は死なない:メディア・記憶・歴史』岩波現代文庫、2014年(2004年出版の本)でも、スピルバーグのアミスタッド事件が、pp.185-195, pp.278-283等で、論じられている。

スズキ(p.186)によると、スピルバーグの映画はオーウェンズの小説を下敷きにしている。『ライオンのこだま』を書いたチェイス-リバウト(Barbara Chase-Ribout, Echo of Lions, William Morrow, 1989)が、映画の制作者を盗用のかどで訴えようとしたこともある、という。

スズキは、アミスタッド号事件で中心的な役割を演じたはずのルイス・タッパンは、モーガン・フリーマンが演じる架空の人物シオドア・ジョードソンの脇で、影が薄くなっていると言う(p.189)。これは、物語がよく理解できるようにする手法であるとともに、実際の歴史とは異なるハリウッド式法廷ドラマの型にはめ込むものであると批評する。スピルバーグの物語も、アウトサイダーによる正義の要求が勝利を収めて終わり、アメリカの法制度は合理性と人間性を備えたものであると物語られものになっていると、スズキは言う(p.190)。

直截に表現すると、スズキは映画にのせられたアメリカ万歳の主張が気になっているのであろう。

この映画それ自体ではなく、スズキは映画が引き起こしたアメリカの様々な反応を指摘する。その一つがThe Museum of America and the Sea に載せられたアミスタッドの資料である。2016年2月に確認した限りで、例えば、Marcus Rediker(ピッツバーグ大の歴史学の教授)による"The Amistad Rebellion"の講義を聞き、読むことができる。1839-40年にアミスタッド号事件を裁いた地方裁判所判事Andrew T. Judsonの手書きの文書も、聞き、読むことができる。これらを元にして、アメリカの学生(高校生・大学生)はアミスタッド号事件を論じることができるようになる。日本人にとっては、手書きの英文(19世紀の手書き文字)を読む練習にもなるであろう。インターネットが歴史の教材を提供してくれる。