イギリス奴隷貿易の廃止と宗派

 英文題名:The abolition of the British slave trade and religious denominations

 児島秀樹(Kojima Hideki)

 明星大学『経済学研究紀要』第34巻第2号(2003年3月)、pp.11−25、掲載論文

1 奴隷貿易廃止概略

 イギリスの大西洋奴隷貿易は、17世紀後半に王立アフリカ会社がアフリカとの交易を統制した頃から本格的に始まった。奴隷貿易は当初、ロンドンを中心として遂行されていたが、王立アフリカ会社が独占していた地域に対する交易が開放されてから、ブリストルやリヴァプールの商人が介入する貿易構造へと変化していった。全期間では、リヴァプールが奴隷貿易量のほぼ半数、ロンドンが3割、ブリストルが2割ほどを占めていたが、バレンヅの集計では、奴隷貿易の末期である1780〜1807年に、英国や英国領西インド諸島を出航した奴隷船は総数が3,368隻であり、そのうちリヴァプールを出航した船が2,473隻(73.4%)、ロンドンが499隻(14.8%)、ブリストルが240隻(7.1%)となっている。(1)イギリスの奴隷貿易は18世紀後半には、ロンドンという、イギリスの政治・経済の中心的都市の商人に担われる貿易ではなく、たとえ産業革命の成果の主要な輸出港になったとはいえ、地方の港町にすぎなかったリヴァプールが中心となっていた。主にロンドンの委託代理商によって担われた砂糖貿易とは対照的である。

 奴隷制度に対する批判はクエイカー教徒によって、17世紀から始まっていたが、本格的な反対運動は国教徒のグランヴィル・シャープ(Granville Sharp:1735−1813)によって、1760年代から始められた。彼は1765年にジョナサン・ストロングという名のバルバドスから連れてこられた黒人奴隷が所有者にピストルで強打され、路上に打ち捨てられていたのを哀れみ、ストロングを介抱した。しかし、元気を取り戻した奴隷を発見した所有者が西インドに売り飛ばそうとしたため、シャープの裁判闘争が始まった。シャープは1771年には、ヴァージニアから奴隷として運ばれ、所有者の元から逃亡したジェームズ・サマセットのために、ヴァージニアと異なり、イギリスの法律では奴隷制が認められていないという理由で、その解放を求める訴訟をおこした。1772年にこの裁判に勝利し、1万人と推定されたイギリス国内の奴隷が解放の望みを持てるようになった。(2)

 そして、裁判闘争の次に、各地で、反対署名活動をはじめとした政治活動が始まる。大規模な奴隷貿易反対運動は1787年、綿工業の中心都市マンチェスターで始まった。当時、5万人の人口のマンチェスターで、1万人をこえる反奴隷貿易の署名が集まった。のちに1814年、1833年には、英国人口の5分の1から、15歳以上の署名が集まった。これはカトリック解放法や議会改革運動に関する署名より多かった。1830年代には4000の請願が議会に届けられ、1833年には1300の協会(association)が反奴隷制活動に協力した。反奴隷制の指導者、トンプソン(George Thompson)は75万人の聴衆に訴えたといわれる。(3)

 これらの運動を統合する役割を果たしたのが、ロンドン奴隷貿易廃止協会である。1783年から議会への奴隷貿易廃止請願を始めていたクエイカー教徒が、1787年に奴隷貿易廃止協会を結成した。この組織が1806年の海外奴隷貿易法と1807年の奴隷貿易廃止法の制定を実現したといえるであろう。1806年の法律では、英国商人は新たに征服した植民地や外国領の植民地に奴隷を輸出するのが禁止された。これによって、英国の奴隷貿易の3分の2が廃止されるという効果をともなった。(4)

 イギリスではまず奴隷貿易が廃止され、次に奴隷制度の廃止が俎上に載せられた。この戦略は、ロンドン奴隷貿易廃止協会によって練られたものである。奴隷制度の廃止は所有権の侵害にも関係していて、困難が予想されていた。1832年の議会改革で、西インド利害の議席のいくつかが廃止され、反奴隷制の意見が強い選挙区に投票権が与えられた。1832年の選挙では、奴隷制反対を支持するかどうかが、選挙戦の的となった。1831年末にジャマイカで奴隷反乱が生じたことも、奴隷制廃止に向けての運動に力を与えた。そして、1833年に奴隷制廃止が実現した。

 イギリスの奴隷制反対運動に影響を与えたアメリカでは、17世紀末からクエイカー教徒が奴隷制反対の立場を表明していた。アメリカではジョン・ウールマン(John Woolman:1720〜1772)とアンソニー・ベネゼット(Anthony Benezet:1713〜1784)が有名である。ウールマンは奴隷が生産したサトウキビによる砂糖の使用をやめて、サトウカエデの砂糖を利用するようになり、多くのクエイカー教徒がこれにならった。しかし、クエイカー教徒の中にも黒人奴隷貿易を家畜の輸出入と同等に考えているものもいた。ベネゼットは強硬な奴隷貿易廃止論者であるベンジャミン・フランクリンとも親交を結び、イギリスの廃止論者とも連絡をとり、イギリスの奴隷貿易廃止に大きな影響を与えた。(5)

 アメリカでは植民地議会によって奴隷制に反対するさまざまな措置が決められたが、イギリス本国の枢密院で拒否されていた。しかし、1776年の独立宣言とともに、アメリカの動きが活発化する。1780年にペンシルヴェニアで、奴隷制度の漸進的な廃止が決められ、18世紀末までに、デラウェアを除く北部・中部諸州で奴隷制度の廃止が決まった。一番早く奴隷制度を禁止したのは、まだ州として認知されていなかったヴァーモントの1777年憲法であった。独立革命時代には、自由黒人に革命軍の兵士になったものが多かったし、北部では募兵すると、多くの奴隷が主人にかわって従軍し、その代償として自由が与えられた。(6)

 しかし、18世紀に多くの奴隷は北アメリカ植民地ではなく、西インド諸島、特にジャマイカに輸出されていた。西インド諸島では、藍や綿花の他、特に砂糖が生産され、砂糖の生産のために奴隷が輸入された。リヴァプールの奴隷船はアフリカでビーズ、武器、綿織物などと交換に奴隷を獲得し、英国への帰路では、砂糖よりむしろ綿花を積んで帰国した。

2 奴隷貿易廃止に関する論争

 奴隷貿易と奴隷制度の廃止に関しては、多くの論考が発表され、さまざまな論点が提起されている。1807年に、イギリスの奴隷貿易が法律によって廃止されたが、「利益」のある貿易を廃止するに至った理由として、いくつかの論点が提起されている。1933年に出版された『英国反奴隷制運動』で、クープランド(Sir Reginald Coupland)はシャープ、クラークソン(Thomas Clarkson:1760−1846)、ウィルバーフォース(William Wilberforce:1754−1833)たちが奴隷貿易の野蛮性に目を開かせたとして、廃止論者の貢献を強調した。

 エリック・ウィリアムズやイニコリのように、奴隷貿易と産業革命の関係を重視する見方もある。「産業革命の端緒となった綿織物業は、奴隷貿易の主要な商品としてリヴァプールから輸出され、カリブ海の砂糖植民地の副次的産物として、綿花が同じ港に戻ってきたことから、その後背地マンチェスタに根づいたものである。この意味で大西洋奴隷貿易こそは、イギリス産業革命の起源そのものであったが、さらに、奴隷貿易が生み出した利潤が産業革命の資金源として、決定的に作用したという見方」である。(7)ウィリアムズは1944年に発表された『資本制と奴隷制』で、経済的な論理と英国の利益のために、奴隷制が廃止されたと論じ、その一つの象徴的な事例として、ウィリアム・ピット(第一次ピット内閣:1783〜1801年)の政策に注目した。奴隷貿易廃止運動が活発になると、当初、ピットは人道主義的にそれを支持した。英国のカリブ植民地はサン・ドマング島などで生産されたフランス領カリブ植民地産の砂糖との市場価格競争に負けていたためである。1788年の枢密院調査委員会で取り上げられた生産費の相違が、ピットにとっては決定的な要因であった。ピットは奴隷貿易の国際的な廃止を支持し、フランス領植民地に打撃を与えて、イギリス領の傷を少なくしようとした。しかし、1791年のサン・ドマングの反乱勃発でピットの熱情は冷めた。人道主義的に奴隷貿易を廃止するか、経済的に有利なサン・ドマングを手に入れるか。ウィリアムズによると、それがピットにとっては問題になった。(8)そして彼は、19世紀にはキューバやブラジル産の砂糖も加わり、砂糖が生産過剰となり、そのため、1807年に奴隷貿易が廃止され、1833年に奴隷が解放されたと主張した。(9)

 個々の論点に関しては、それ以降の研究で、ウィリアムズ・テーゼの誤りが種々指摘されている。例えば、1807年の奴隷貿易廃止の原因の一つとして指摘された砂糖の過剰生産についてである。1806年のナポレオンのベルリン勅令で、大陸市場が閉ざされたとき、砂糖に関する調査を行った議会は、海外市場での砂糖需要の低下が原因で、砂糖の在庫が増えていると結論した。すなわち、ウィリアムズの理論とは異なり、過剰生産で売れなくなったのではなく、1806年の時点では、ナポレオンの政策のために、売れなくなったにすぎない。(10)

 奴隷貿易の廃止を主要な研究対象にしているわけではないが、ウォーラステインも興味深い論点を指摘している。ウォーラステインはウィリアムズ・テーゼに好意的である。彼は、特定の地域の個々の生産物は「世界経済」全体の中でわずかな割合しか占めていなかったが、「世界経済」全体はきわめて高い利潤を生み出し、かなりの資本蓄積をもたらしたし、この蓄積された資本がイギリスに集中した点を前提として、「西アフリカが果たした役割としては、奴隷貿易の利潤こそが決定的であったという議論ができないわけではない」と主張した。(11)そして、西アフリカからヨーロッパ世界経済への輸出構造の3局面を指摘する。(1)1750〜1793年の奴隷貿易の拡大、(2)1790年代〜1840年代の合法貿易=第一次産品輸出の拡大と奴隷輸出の維持、(3)1840年代〜1880年代の大西洋奴隷貿易の消滅と第一次産品(パームオイルとピーナッツ)輸出の成長。西欧で、潤滑油や蝋燭用などの油に対する需要が増えたため、西アフリカでパームオイルの生産が拡大し、そのために、西アフリカでは奴隷を輸出するよりも、奴隷をプランテーションで使役して、パームオイルを生産するようになった。西アフリカは、いわば、西欧の求めに応じて、18世紀には奴隷を、19世紀にはパームオイルを西欧に提供したのである。(12)

 奴隷貿易の廃止と奴隷解放を実現したのは、経済的な要因であるか、思想的・人道主義的な要因であるのかは、半世紀以上の論争がある。経済的な要因が全くなければ、廃止されそうにないし、思想的な要因がなければ、廃止が実現できそうにない。奴隷制反対が思想的なものであったとしても、それが指導者層のものか、大衆によるものであるかで、論争がある。たとえば、ウィリアム・コベットは議会内外で奴隷制廃止運動に反対していたが、1832年にマンチェスターの労働者の大会に出席したのち、奴隷解放を支持するようになった。大衆運動が指導者を動かしたのである。とはいえ、コベットの場合には、西インド利害を擁護するためではなく、急進主義者として国内の労働者階級の惨状を改善するために、「偽善者」としての奴隷解放運動の指導者を非難していたにすぎないが。(13)

 女性の動きも無視できない。1778−88年のマンチェスターの廃止協会の資金の4分の1は女性から提供されたものであった。貧民に対する慈善事業や女子教育の改革に尽力したハナ・モア(Hannah More: 1745−1833)も、ウィルバーフォースとの親交で福音派の運動にひかれて、反奴隷制の著作を出版した。ハナは1773年に初めてロンドンを訪れたとき、青鞜派(bluestocking)に招かれ、エドムンド・バークらと親交したが、バークも議会で奴隷貿易に反対した論客の一人であった。(14)

 女性たちは台所をあずかるものとして、奴隷が作った砂糖の購入拒否運動も展開した。1825〜33年に、少なくとも73の女性の反奴隷制協会が活動していて、中でも、バーミンガムの女性協会がもっとも重要であった。1830年には、女性の請願禁止が解かれ、反奴隷制運動が活発化した。女性たちは西インド諸島の黒人の教育や救済、そして、反奴隷制活動家への資金提供に熟達していた。1833年の反奴隷制署名の3分の1は女性のものであり、一つの協会としては最高の、187,147人の署名を集めた。(15)

 近代フェミニズムはイギリスの場合、しばしばメアリ・ウルストンクラフトの『女権擁護』(A Vindication of the Rights of Women, 1792年)に始まるとされる。メアリは『人権の擁護』(1790年)で、バークの『省察』に対して、「社会改造に着手した革命共和主義の英雄が社会改造どころかかえって過去の家父長型を強化した点に憤慨した」。(16)上流階層の慈善活動を展開したハナに対して、メアリは下からみすえることができた。クエーカー教徒として、奴隷解放に尽力したジョセフ・ウッズ(Joseph Woods: 1738−1812)は男性性を誇りとし、家父長的な発想で人道主義を展開した。彼は「悲惨さを和らげ、すべての人に良き行いをすることは仁愛(humanity)の明白で実践的な教えであ」ると考え、アフリカ人を無力で、貧困であり、罪がないと表現した。ウッズは、女性の能力は生まれながらに制限されていて、女性の領分は想像力と味覚にあると考えるほどであった。(17)

3 18世紀末の奴隷貿易量

 英国の奴隷貿易は1792年が最高で、その年に、5.3万人以上の奴隷が輸出されたといわれる。(18)リチャードソンの推計では、1698〜1807年の110年間に、奴隷輸出総数は3,052,509人であった。これは単純平均で、年間2.7万人強の奴隷が輸出されたことになる。それに対して、バレンヅの推計では、奴隷貿易末期、1780年以降の28年間に、総数で894,998人、年間3.2万人弱の奴隷が輸出された。バレンヅの推計はその期間をとると、リチャードソンより14.5%少ない推計になっている。期間を、奴隷貿易廃止協会が設立された1787年から奴隷貿易廃止法が制定される前年の1806年までの20年間に限定すると、年平均34,420人ほどの奴隷が輸出された。輸出量が増大した背景には、奴隷貿易からのフランスの撤退の影響もあるであろうが、奴隷貿易廃止運動はプランターの危機感をあおり、廃止以降の蓄えを求めて、プランターが奴隷購入をすすめたため、奴隷貿易廃止運動が活発であった時期に、多くの奴隷が西インド諸島に輸出されたといえるかもしれない。(19)

 図1はアメリカ独立戦争による影響で、奴隷貿易量が減少していた、1776〜1782年までの時期の末期からグラフ化されている。1783年には銀行家や国王からの資金援助で貿易量が増大した。

図1 1780〜1807年奴隷貿易量

 浜林氏は奴隷解放運動を5期にわけている。第1期は17世紀末から1787年で、クエイカーが中心になっていた時期である。第2期は奴隷貿易廃止協会が設立された1787年から、1794年までの時期で、以後、フランス革命の影響で運動の停滞が始まった。第3期は1794年から1807年までの時期である。この間の停滞期は1804年に終わり、1807年に向けて、再び活動が再開されることになった。第4期は1807年の奴隷貿易廃止法から1833年の奴隷制度の廃止までの時期である。第5期はイギリスが他国に奴隷貿易の廃止を強制した時期である。(20)

 1787年の奴隷貿易廃止協会の設立後、1791年までの5年間、議会内ではウィルバーフォースが、議会外ではクラークソンが中心になって、精力的な反奴隷貿易運動が展開した。この時期に3.2万人強の奴隷が輸出された。この数値は1780年以降の貿易量の平均値に近い。

 1789年のフランス革命でフランスの奴隷貿易がイギリスに開放された結果、1792年までは上昇傾向を示し、イギリスの奴隷貿易が活性化したのがわかる。1791年8月のサン・ドマングの奴隷反乱で、ジャマイカの奴隷価格は1791年の£45から92年の£55に上昇した。1792年にはフランスの奴隷貿易が事実上終わり、英国商人がフランスの穴を埋めた。まるで92年が供給過剰であったかのように、93年には貿易量が激減する。これには政治的理由がある。1793年2月から革命フランスとの戦争で、ロンドンが金融危機に陥った。93〜94年には8社の奴隷貿易商会が破産した。西インド諸島の奴隷は作物自給分をのぞくと、アメリカ合衆国からの食料供給に頼っていたが、この供給もとだえた。

 1792、93年の激変期をのぞき、1794年から96年までの3年間、奴隷貿易は年平均2.6万人強の規模に落ち込んだ。イギリスはサン・ドマング島の奴隷反乱を平定するために、1793〜98年、軍隊を派遣したが、鎮圧に失敗した。しかし、1793年にはフランス領のマルティニクを、1796年にはオランダ領ガイアナ(Demerara, Berbice)を奪取した。ガイアナは1802年に返還されたが、ふたたび1814年に英領とした。この北部に砂糖植民地のデメララがあり、この時期、1.2〜1.5万人の奴隷が輸出されたといわれる。(21)さらに、イギリスは1797年にスペイン領トリニダード、1799年にオランダ領スリナム、1801年にデンマーク領西インドを奪取した。

 続く1797年から1802年までの6年間は、年平均4万人をこえる規模となり、もっとも奴隷貿易が活発であった一時期となっている。この頃は、ほぼ、奴隷貿易反対運動が沈滞していた時期である。この時期の奴隷貿易はカリブ海植民地の獲得に負うところが多いであろう。

 奴隷貿易にとっての好景気をすぎて、1803年から1807年の5年間は、奴隷貿易廃止までの30年ほどの間の平均規模である年間3万人強の数値で推移している。このように奴隷貿易量は政治的な動きに影響されやすく、年々の貿易量の変動幅が2倍をこえることもまれではない。

4 奴隷貿易廃止協会とクエイカー

 奴隷貿易廃止協会に関しては、すでに市橋氏と布留川氏による詳細な研究がある。(22)ここではそれを補足する形で、主にジェニングズの研究を利用して、1807年に至るまでの過程を鳥瞰する。

 ロンドン奴隷貿易廃止協会が設立される以前に、クエイカー教徒の組織が1783年に設立されていた。クエイカー組織から認められた正式の組織である「受難に関するロンドン奴隷貿易委員会」の他に、その設立の数週間後の1783年7月7日に、それと重複する6人の構成員による非公式の組織も作られた。非公式の組織には前述したウッズの他、ノウルズ(Dr Thomas Knowles: 1734−1786)、ディルウィン(William Dillwyn: 1743−1824)、ハリソン(George Harrison: 1747−1827)、ロイド(John Lloyd: 1750−1811)、ホア(Samuel Hoare: 1751−1825)が参加した。非公式の組織が作られた理由として、ジェニングズは「封建領主」的意識を指摘している。(23)ブリストルのクエイカー教徒の庶子として生まれ、アイルランドで鉄工業に従事し、1779年にロンドンに移ったジェンキンズ(James Jenkins)によると、ロンドンのクエイカーの組織は「卑しい身分の信者から、へつらいと服従を常に期待し、いつもそれを手に入れていた封建的支配者たち」によって組織されていた。(24)奴隷制に反対したクエイカーの多くは、このような権威主義的な支配者からの自由を求めていたようである。イギリスはのちに、このような権威主義からの自由をえていく。

 クエーカー(フレンド派)は1647年に、ジョージ・フォックス(George Fox: 1624−91)が創始した宗派である。フォックスは「人は誰でも信仰によって救われる」だけでは満足せず、救われた者の内に輝く「内なる光」が重要であると説いた。内なる光は神の啓示である。「クエーカー」という呼称は信徒が礼拝中に聖霊に感じて体を震わせたこと、あるいは、フォックスが「主の言葉に震えよ」と教えたことに由来し、神の前の平等、暴力の否定、恩寵の普遍性、聖霊の内なる啓示を尊んだ。クエイカーを広めたウィリアム・ペン(William Penn: 1644−1718)は1670年代にニュージャージー州の植民組織に貢献し、父の海軍提督としての功績でチャールズ2世から与えられた森林地帯を、1681年にクエーカー派に提供した。ここがペンシルヴァニア(ペンの森)となった。彼は「聖なる実験」と称してフィラデルフィアというクエーカーの町を建設し、インディアンと平和条約を結び、奴隷解放に尽力した。

 1652年までフレンズ派の集会はヨークシャで開かれたが、その後、数年で、ランカシャ、カンバランド、デヴォン、コーンウォル、ハーフォドシャ、ロンドン、ブリストル、ノリッジ、バルバドス、フランス、オランダでも開催されるようになった。ピーク時の1680年に6万人、18世紀末に2〜3.2万人のフレンズ派がいたが、1850年頃には、約1.5万人にまで信徒数が減少した。クエーカーは良質の品を定価で売り、親族を中心として組織だった人脈を作り上げていたので、成功した事業家が多く輩出された。(25)

 クエイカーが19世紀中頃までに衰退した原因として、裕福になったために、宗教活動をないがしろにするようになったこと、牧会者の資格の制度化・硬直化、生得教会員資格の制度化(1737年)などが指摘されている。(26)資格の制度化の一貫として、結婚に関する規制が1760年以降強化され、教会内に排他的な感情が育った。1760〜80年の期間に破門件数は急増し、その破門理由のうちでもっとも多かったのが、非クエイカー教徒との結婚であった。信徒同士の結婚によって、資本と信用をえて事業に成功したクエイカーはそれを制度化して、閉鎖的になった。非公式委員の一人ウッズの親友マシューズ(William Matthews)は、非クエイカーとの結婚を肯定したため、1783年に破門された。マシューズはラック(Edmund Rack)とともに、1778年に「イングランド西部・バース農業協会」を設立した。(27)リヴァプールの奴隷制反対派のラスボーン(William Rathbone)もフレンド派の硬直化を批判して、1805年に破門された。ジェニングズはこれを奴隷制反対派の静寂主義と、福音派のクエイカーとの対立の一例と理解している。(28)1805年にジョージ・ハリソンやジョセフ・ウッズの親友の一人であったフィンチ(Henry Finch)は破門を不服としてクエイカー組織を訴えたが、訴訟に敗れた。ウッズはこの敗訴で「厳格な規律派」が強化されることを恐れた。(29)ハリソンやホアの子供たちも、国教徒との婚姻や組織に対する批判のため、破門された。(30)

 奴隷制に反対したクエイカー教徒は、その主流派である厳格で権威主義的な集団とは異なり、より自由を重んじた人が多そうである。ウッズの場合は、しだいに静寂主義(quietism)に傾倒した。(31)

 クエイカーの非公式組織の6人のメンバーのうち、ディルウィンはアメリカから渡ってきて、アメリカの組織とイギリスの組織の仲介役となり、イギリスの組織を作るのに、いわば立役者的な役割を果たした。医師のノウルズは活躍する機会が与えられる前に、熱病で死亡した。ロイドはのちのロイズ銀行の経営者たちの親戚である。ジョン・ロイドはバーミンガムの裕福な商人であり、銀行家であったサンプソン・ロイド2世の第3子として生まれ、1773年にタバコ事業をはじめた。(32)彼は1775〜77年に、タバコ事業のために、北アメリカ植民地を旅行して、奴隷制の現場を目撃し、それに反対するようになった。1790年にタバコ事業をやめ、ロンバード街で銀行を経営するようになったが、ジョン・ロイドの詳しい経歴はわからない。(33)

 非公式のメンバーのうち、のちまで最も活躍したのは、ハリソン、ホア、ウッズの3人である。ハリソンは倉庫業者であり、銀行家であった。ホアも銀行家であり、ウッズは紡毛商人(woollen−draper)であった。当時の意識としては中産階級的であるが、成功した豊かな経営者層に属する。しかし、イギリス社会の中では、ウィルバーフォースのような地主階層と異なり、一段低い地位に甘んじていた人たちである。

 非公式メンバーではないが、奴隷制に反対する多くの書籍を出版・販売したジェームズ・フィリップス(James Phillips: 1745−1799)もこの3人と密接な協力関係にあった。その親友の一人で、フィリップスが配本していた一人に、リチャード・レイノルズ(Richard Reynolds: 1735−1816)という博愛家がいた。レイノルズの金融代理人として、フィリップスはその慈善事業に対してだけでなく、投資にも助言を行った。レイノルズは、イギリス産業革命の立役者の一人であり、コークス製鉄で有名なコウルブルックデイルのエイブラハム・ダービー2世の娘と結婚し、義父の死後、ダービー家の支配人として活躍した人物である。「ヴィクトリア期の多くのクェイカーたちと同じように、彼等(ダービー家の人びと)は奴隷制反対運動と絶対禁酒運動を支持し、穀物法反対同盟において活躍した」。(34)

 フィリップスの親友がハリソンである。ハリソンは1766年にリチャード・レイノルズの息子の家庭教師として雇われ、3年間そこで暮らした。1769年にレイノルズ家をあとにして、ロンドンに出向き、主にアメリカ交易に従事していたバークレイ(David Barclay)に雇われた。(35)ハリソンと義父のクックウォージ(William Cookworthy of Plymouth)はフィリップス家で、エマニュエル・スヴェーデンボリ(Emmanuel Swedenborg: 1688−1772)の話を聞き、感銘を受けた。スヴェーデンボリは鉱山局の技師として働いた自然科学者であるが、1745年から、聖書の意味を考える際に霊の世界との交流体験を重視し、宗教家としての後半生をはじめた人物として有名である。ハリソンたちの評価は技師としてではなく、宗教家としてのスヴェーデンボリの思想に対してのものであった。鉄工業との関係では、当時、イギリスはスウェーデンから多くの銑鉄を輸入していて、イギリスの輸入総量のうち、スウェーデンからの鉄は、1720〜50年に75%、50年代に66%、60年代はじめに56%もあったと推計されている。(36)

 サミュエル・ホアはジョージ・ハリソンと同じ学校を卒業し、その姉妹の一人はジョセフ・ウッズと結婚した。ホアがロンドン奴隷貿易廃止協会の財務を担当し、貴族の後援に頼らなくてもいいように、小額の寄付金を集めて、慈善活動の資金にするために、基金を創設した。(37)

 ウッズは1774年にペンシルヴェニアからディルウィンが来英したときに、彼を自宅に招いた。ウッズはクラークソンと同様に、数冊の小冊子を出版して、奴隷貿易と奴隷制に反対する思想を提供・啓蒙した。匿名で出版した『ニグロ奴隷制考』(Thoughts on the Slavery of Negroes, 1784)という32ページの小冊子で、ウッズは「1世紀近くも存続し、奨励されている制度が、なぜ、今、攻撃を受けなければならないのか、多くの抑圧の中で、なぜ、これが選ばれなければならないのか」と問いかけ、「現代の仁愛(humanity)」のためであると答えた。(38)ウッズは市場経済が発展している時代に、商人や消費者が正しく売買できるものであると判断するための、宗派に限定されない基準として、人道主義(humanitarianism)を提案した。アフリカ人をひよわで、貧しく、罪がなく、無力であるというイメージで語ることで、ウッズは仁愛を原則において、アフリカ人と付き合うのがイギリス人の務めであると説いた。このように、ウッズはアフリカ人と対等の立場で交流するのではなく、慈善活動にしばしばみられるように、施し気分で、あるいは、ジェニングズが「パターナリズムの言葉で」と表現しているように、上の立場から与える保護・愛情として、人道主義をとらえていた。(39)

 ウィルバーフォースも同様であるが、クエイカー教徒にも見られた、このような人道主義的立場では、浜林氏が指摘されているように、英国の下層労働者の立場を代表する急進主義者とは、協力・合流するのは困難であり、一線を画すことになってしまう。(40)

 1783年5月に、ウッズとディルウィンはフィラデルフィア図書館会(Library Company of Philadelphia)のための書籍購入代理人となった。年2回、春と秋に、図書館会から一定金額がウッズたちに渡され、会が注文する本の他に、ウッズたちが適切であると考える本が選ばれ、発送された。83年9月に送付された本の中には、プリーストリーやヒュームの本の他に、アダム・スミスの『国富論』(1776年)も含まれていた。『国富論』では、「人間は殆んど絶えず同胞の助力を必要とするものであるが、これを人の恩恵だけにすがってえようと期待してもそれは無駄である。... 吾々は彼等の仁心に訴えずして、彼等の自愛心に訴える。吾々は彼等に向かって決して自分の必要を説かないで、彼ら自身の利益を説いて聞かせる」と主張されていた。仁心(仁愛:humanity)ではなく、自愛心(self−love)への訴えである。ウッズは逆に、奴隷貿易は商業にとって恥ずべきものであり、仁愛の冒瀆であると論じた。そして、徳の実行には消費者も関係がある点を明確にするため、砂糖やタバコなどの奴隷の産物は贅沢品である点を指摘した。(41)

 ジェニングズによると、奴隷貿易廃止協会の立場は、ウッズの人道主義とスミスの経済学を融合したものである。1806年6月10日に、フォックスは奴隷貿易廃止の動議を提起し、下院は「アフリカの奴隷貿易が正義、仁愛、健全な政策の原則に反しているのを鑑み、可及的速やかに、奴隷貿易の廃止のため効力ある措置を採用する」と述べた。フォックスがここで利用した言葉が奴隷貿易廃止協会によって展開されたものである。(42)

 ジェニングズはロンドン奴隷貿易廃止協会の性格を次のようにまとめている。

 まず、4人のクエイカー教徒が中心になって、協会が結成され、運営された。その4人はジョセフ・ウッズ、サミュエル・ホア、ジョージ・ハリソン、ジェイムズ・フィリップスである。彼らは1783年に、奴隷貿易と奴隷制度の廃止のために活動する、英国で最初の組織を作った。4人はクエイカー教徒の経験から、団結・組織する術をもっていて、クエイカー内の組織にとどめるのではなく、キリスト教会全体に向けて、全国的な政治運動の創出に尽力した。政治の世界では、4人は議会外の支援者である大衆と議会内のウィルバーフォースとの仲介役をつとめ、議会に対しては、一歩身をひいて、ウィルバーフォースをたてていた。彼らはウィルバーフォースやクラークソンの指導力を讃えたが、フォクスは評価しなかった。4人のこのような態度によって、ウィルバーフォースたちが奴隷貿易廃止運動史の表舞台に登場することになり、結果として、歴史家はフォックスの功績をあまり評価できない状態になった。実際には、1807年法の導入まで準備したのはフォックスである。フォックスの石棺には奴隷貿易から解放されたアフリカの子供たちの銅像が刻まれているほど、フォックス自身、奴隷貿易の廃止を自分の主要な政治活動の一つとして理解していた。ジェニングズは奴隷貿易の廃止と経済体制のかかわりについては、明確な論評を避けているが、4人とも事業家であり、通常の経済的戦術を「廃止事業」(the business of abolition)に適用したと理解している。4人をつき動かした動機に関して、人間の本性はどこでも自由の追求として現れるという信念をもち、奴隷貿易の現実に直面して、人間は自分のために考え、行動する能力を発揮するものであると、少なくともウッズは考えていた点をジェニングズは指摘する。この思想とのかかわりで、貴族がnoblesse obligeとしてその責任を理解していたように、彼らはブルジョワの博愛(bourgeois benevolence)を義務として理解し、仁愛の義務意識(a sense of humanitarian duty)がその底流に流れていたと。(43)

5 奴隷貿易廃止協会と福音派

 ハリソン、ホア、ウッズ、フィリップスらのクエイカー教徒が核となって、ロンドン奴隷貿易廃止協会の第1回会合は1787年5月22日に開催された。ここに集まった12人中9人がクエイカー教徒であった。残り3人のうち、グランヴィル・シャープは前述したように、すでに1760年代から英国内の奴隷のために裁判闘争を推進していた。

 トマス・クラークソンは廃止協会の活動の一貫として各地を飛び回り、全国的な運動網の創出に尽力した人物であるが、廃止協会設立時にはまだ27歳の若者であった。彼は1783年にケンブリッジ大学を優等生として卒業した。クラークソンは「人をその意思に反して奴隷化するのは正しいか」という課題の懸賞論文に対して、アンソニー・ベネゼットの『ギニアの歴史』を参考にしながら論文を作成した。1785年6月に、クラークソンが入賞したと発表された。彼はその授賞式の帰り道で反奴隷制の運動にその人生を捧げることを決心した。クラークソンがその論文を『アフリカ人を中心に人類の売買と奴隷制に関する小論』(An Essay on the Slavery and Commerce of the Human Species, Particularly the African)と題して、さらに練り上げて、出版しようとしていた頃、彼はロンドンでジェームズ・フィリップスとウィリアム・ディルウィンと知り合った。フィリップスが出版社・本屋を経営していたので、ここから出版したのである。

 廃止協会のもう一人の国教徒であるサンソン(Philip Sansom)は、梳毛毛羽立て機の製造業者であったが、アメリカとの交易に成功した商人になっていた。サンソンとウッズは1775年3月に出会い、以後、親密な友好関係を築いていた。(44)

 1787年の段階では、ウィルバーフォースは廃止協会に協力することを約束してはいるが、参加していなかった。6人の非公式組織のクエイカー教徒は1785年にウィルバーフォースと出会った。ウィルバーフォースはまだ30歳であり、福音派に属することになったばかりの時期である。彼は議会内での活動を中心としていた。国教会の中では、この福音派、特にウィルバーフォースが属したクラパム派が奴隷貿易と奴隷制の廃止に積極的に取り組むことになる。

 福音主義は広義ではプロテンタンティズム一般を意味するが、18・19世紀の英国史において、狭義では、ジョン・ウェズリー(John Wesley: 1707−88)が開始した信仰復興運動であるメソディストや、クラパム派の活動をさす。当時の重商主義的経済学説のように貧民が貧しいのは、彼らが怠惰であるからであると考えるのではなく、ウェズリーは貧しい者こそが救われると考え、キリスト教の根本に戻ろうとした。クエイカー教徒の事業家は鉄工業や銀行業などに輩出され、産業革命期までの英国の経済を動かす中心的な勢力の一つとなっていたかもしれないが、18世紀末からは福音主義が中産階級にも浸透していき、熟練労働者の宗派であったメソディスト派からも陶磁器や製鉄所などの経営者が出現するようになった。ランカシャの国教徒の綿工業企業家はたいてい福音派に属していたといわれる。クエイカー教徒の中でも、19世紀には、静寂派ではなく、福音派が増えていった。(45)

 18世紀末から19世紀前半にかけて、メソディストも諸派に分裂するが、奴隷貿易廃止運動に積極的に取り組んだのは、政治的に保守的であるウェズリー派であったといわれている。(46)1774年にはウェズリーの『奴隷制考』(Thoughts on Slavery)が出た。ウェズリーは政治的に保守的であって、廃止の立場に対するメソディストの影響が増大するのに歯止めをかけたといわれる。しかし、彼は1787年にロンドン廃止協会の呼びかけに応じて、献金している。(47)

 国教会内での福音宣教活動は、名誉革命期のトマス・ブレイ(Thomas Bray:1656−1730)の伝道活動から始まる。この流れが強化され、国教会の信仰覚醒運動の一貫として、18世紀終わりに福音宣教運動が展開された。小嶋氏は福音宣教活動が宣教、社会改革、文書伝道の3分野で展開されたとまとめている。宣教活動の一つとして、1797年に、「アフリカ・東方宣教協会」が創設され、これは、1812年にイギリス聖公会宣教協会と改称された。この活動は東インド会社のチャプレンを選任して、宣教活動にあたるのが主となった。(48)

 福音宣教運動による社会改革では、奴隷解放運動がその主役をつとめた。この先駆者はウィリアム・ウィルバーフォースで、彼は国教会の執事となったが、ほとんど牧会しなかった。クラパム派は国教会福音宣教活動の中心にいたロンドンのクラパム地区に住む、上流階層の活動であった。1785年頃からはじまったクラパム運動の中心には、ヨークシャ、ハダーズフィールドの牧師ヘンリ・ヴェン(1725−97)、その子ジョン・ヴェン(John Venn: 1759−1813)、その孫ヘンリ・ヴェン(1796−1873)がいた。彼らは奴隷制の廃止の他に、国内外の宣教活動も展開した。クラパム派には国会議員が多く、彼らは奴隷貿易・奴隷制の廃止の他に、監獄改革、狩猟法や富くじの廃止などに取り組んだ。クラパム派は政治的に保守的であり、ウィルバーフォースやハナ・モアたちはピットと親しかった。彼らはメソディストと異なり富裕層に訴え、上からの博愛的慈善活動を展開した。(49)

 のちに奴隷制の廃止に活躍することになるザカリ・マコーリ(Zachary Macaulay: 1768−1838)は国教会の平信徒で、16歳のとき、ジャマイカで奴隷を使用する事業所の事務員となり、その廃止を願うようになった。クラパム派は機関誌を発行していたが、マコーリは1802年から、その機関誌の編集に従事し、この運動の指導的役割を果たした。 これらの運動の背後で資金援助したのは、ヘンリ・ソーントン(Henry Thornton: 1760−1815)である。彼は国会議員で、クラパム運動に参加し、ウィルバーフォースたちのシエラ・レオネ計画を助け、その会則の草案を作成し、経済的に援助した。(50)

 1791年4月、奴隷貿易に関する特別委員会が審議を始めようとしたとき、サン・ドマングの奴隷反乱のニュースが届いた。奴隷貿易支持派はこの好機を逃さなかった。奴隷貿易の廃止を論じること自体が現在の反乱状態を招いていて、サン・ドマングの反乱はジャマイカに飛び火するとして、廃止議論の即時中止が求められた。ピット、フォックス、バークはそれでも廃止賛成の演説を行ったが、ウィルバーフォースが提出しようとした奴隷輸入の制限法案は廃案となった。(51)

 1791年4月26日、ロンドン廃止協会はウィルバーフォース、フォックス、ウィリアム・スミス(William Smith)、ウィリアム・バー(William Burgh)、ジョン・ペニントン(John Pennington)、マンカスター男爵(Baron Muncaster)をメンバーに加えた。のちには、ドルベン(Sir William Dolben)やソーントンも協会に加わった。この時期、クラークソンは非公式に奴隷が生産した物産の非買運動を展開し、女性が廃止運動に参加できる機会を増大させた。さらに、92年3月のマンチェスターからの請願では、奴隷貿易廃止の支持者が特にメソディストの間で増大している、という情報ももたらされるようになった。しかし、議会の奴隷貿易支持派は、廃止を「野蛮で、実現不可能であり、夢をみている」と断定し、廃止論者をクエイカーに雇われた者であると非難した。(52)この時代に限らず、現状維持を望む者はたいていこれと同様な反応を繰り返すものである。一つは夢や理想を追わないで、現実を直視しろ、という反応である。これは実現させたくないという欲望を、遠回しにして、相手を侮辱し、自分のおごった意識を押しつけるために用いられる意思表示の仕方である。歴史の流れから見ると、奴隷貿易の廃止に抵抗したこのような思想のほうが、実現不可能な夢を見ていたにすぎない。もう一つは、帰属意識に基づく差別であり、特定の集団を「悪い」集団とみなして、「良い」集団に属している自分を守ろうとする、単純な差別意識である。両方とも、歴史の動きについていけない支配層がしばしば用いる子供じみた言い訳にすぎないが、奴隷貿易反対運動でも、その手法が用いられた。

 もう一つの典型的な手法もこの時に採用されている。それほど、この時点では、奴隷貿易支持派が追い詰められていた。すなわち、ダンダス(Henry Dundas)が、漸次的な奴隷貿易の廃止を動議して、これが成功し、1796年まで奴隷貿易の廃止が延期された。ダンダスが奴隷貿易を支持していたとはいえないが、少なくともその結果として、彼らを助けることになった。のちに、ダンダスが海軍省の汚職で聴聞を受けたとき、ウィルバーフォースも攻撃側にまわった。

 しかし、奴隷貿易廃止に向けて動き始めたこの状況が、フランス革命の状況とトマス・ペインの『人間の権利』の思想が伝わることで、一気に失速状態に陥る。マンチェスターでも反奴隷貿易協会が広教会派の国教徒ウォーカー(Thomas Walker)や政治的急進主義者のクーパー(Thomas Cooper)らによって、1787年に設立されていた。急進的思想に嫌悪感を抱いた暴徒によって、ウォーカーの家が攻撃を受けた。彼は空砲をうって、暴徒を追い払ったが、反逆罪で逮捕された。ウォーカーは以前からロンドン廃止協会と密接に連絡しあっていて、マンチェスター憲政協会(Manchester Constitutional Society)の一員でもあり、トマス・ペインの友人・支持者でもあった。(53)

 1793年4月、アビンドン伯(Earl of Abingdon)は、請願は苦情(grievance)の処理や憲法侵害に対する保護のためにある権利であるが、大衆による奴隷貿易反対請願で利用されている仁愛の概念は請願に値するものであるかどうかを問題にした。彼は1794年2月には、外国領への奴隷貿易を廃止する法案の審議で、それはフランスの提案であり、トマス・ペインの『人間の権利』に基づいていると批判し、多くの議員の同意を得るのに成功した。ただし、アビンドン伯は保守派ではなく、ロッキンガムを支持したホィッグであり、ウィルクス(John Wilks)の支持者であり、フランス革命にも好意的であった。(54)

 1783年から活動していたクエイカー組織は1793年夏に解散された。ロンドン廃止協会と連絡をとって、フランスでの奴隷貿易廃止に尽力していたブリソー(Brissot de Warville)が93年10月31日に処刑され、ウッズはフランス革命に懐疑的になった。1794年5月、ロンドン廃止協会は本部を撤収した。その後も、ウィルバーフォースは議会内の運動を続けていたし、廃止協会も活動を継続していたが、ウッズたち、年老いたクエイカーは表舞台から退いていった。国教徒ではないという差別意識で体制から遠ざけられたクエイカーの出番はほぼ終り、福音派とクエイカーは袂を分かつようになった。(55)

 1802年にナポレオンがフランスの奴隷制を認めると、再び、イギリスの奴隷貿易廃止運動が力を増すようになった。ジョージ・ハリソンは数年間の沈黙を破って、1804年に小冊子を出版し、カリブ海の奴隷反乱は奴隷貿易の廃止によってこそ少なくできることや、東インド産の砂糖のほうが安く買えることなどが主張された。この小冊子ではほぼ福音派の活動が無視された。

 1804年2月、ウィルバーフォースが奴隷貿易に関する動議を提出すると予告し、同年5月23日に、1797年以来初めて、ロンドン廃止協会の会議が開かれた。新会員として、故ジェイムズ・フィリップスの子ウィリアム(William Phillips)や、ザカリ・マコーリーらが選出された。クエイカーの老メンバーも集まってきたが、主流は福音派で構成されるようになった。議会では、その後も、奴隷貿易反対派はジャコバン派の残党であるとか、無神論者であるなどのレッテル貼りが行われ、最後の抵抗が試みられた。しかし、奴隷貿易廃止法案の序文から「正義と仁愛に反して」(contrary to justice and humanity)という一文の削除に成功しただけで、1807年、法案は通過し、奴隷貿易が廃止された。(56)

6 まとめ

 奴隷貿易廃止の歴史に関しては、さまざまな論点からの説明が試みられているが、ここでは、奴隷貿易廃止協会に関わった人物を通して、宗派の視角から、奴隷貿易廃止を求めた人たちの行動規範を追ってみた。しかし、ジェニングズも指摘しているように、ここではまだ、フォックスを中心としたホィッグ系の廃止論者に対する考察はされていない。

 奴隷貿易廃止協会に関わったクエイカー教徒とクラパム派は、そして、クラークソンも、アフリカの奴隷を対等な人間として扱うのではなく、humanityを判断基準として、上から奴隷の解放を求めていった。humanityの適訳がみつからなくて、仁愛と訳しておいたが、対等な立場をも包含できる「人類愛」よりも、上から下への保護者的な「慈善」「博愛」に近いものではないかと推量される。極論すれば、動物虐待に反対し、ペットを愛する気持ちと同じである。この点は、まだ、検討の余地が大きい。

 クエイカーは産業革命の推進母体になったような事業家・企業家・産業資本家層であり、当時のイギリス社会の中では、中産階級に属する。19世紀のディズレイリによる「2つの国民」という分け方に強いて分類すれば、上流に入るかもしれない階層であろう。それに対して、ウィルバーフォースを中心とする国教会・クラパム派はまさに上流階層であり、ジェントルマン層であり、体制派である。「ウィルバーフォースの成功は、「古風で、腐敗した」世界での彼自身の名声やコネクションによったのである」。(57)彼らは政治的には保守層を形成し、トーリ系である。フランス革命やペインの『人間の権利』に対する反応から明らかなように、下層民の支持者ではないし、どちらかというと、奴隷所有者にありがちな、奴隷の保護者としての立場に近い。コインの裏表のようなものであろう。

 改革の動きは現場の中産層から始まり、上層部をとらえて、実現に至る。

(1) Stephen D. Behrendt, ’The Annual Volume and Regional Distribution of the British Slave Trade, 1780−1807’, Journal of African History, 38, (1997), p.189.

(2) ザバヌー・ギッフォード(徳島達朗監訳)『アボリショニズムの社会史:反奴隷制運動とクラークソン』梓出版社、1999年、pp.4−8。

(3) Simon C. Smith, British Imperialism, 1750−1970, Cambridge UP., 1998, p.41.

(4) Ibid.

(5) ダニエル・P・マニックス『黒い積荷』平凡社、1976年、pp.212−213。

(6) 有賀貞(他編)『アメリカ史1』(世界歴史体系)山川出版社、1994年、pp.174−175。

(7) 川北稔編『イギリス史』(新版世界各国史11)山川出版社、1998年、p.250。

(8) E.ウィリアムズ(中山毅訳)『資本主義と奴隷制―ニグロ史とイギリス経済史』理論社、1978年、pp.166〜170。

(9) 同上書、p.174。

(10) Smith, op.cit., pp.39〜40.

(11) I.ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム1730〜1840s−大西洋革命の時代−』名古屋大学出版会、1997年、p.169。

(12) 同上書、p.170。

(13) 浜林正夫「イギリス奴隷解放運動と急進主義」八千代国際大学紀要『国際研究論集』9−2、1996年、pp.60〜64。

(14) 青鞜派は1770年代初期から女性の作家や知識人と同義語として利用されるようになった。この言葉はまずエリザベス・モンタギュ(Elizabeth Montagu)の家に集まった人たちに対して用いられた。そこには、ジョンソン博士、エドムンド・バーク、ホレイス・ウォルポールやハナ・モアたちが集まった。Elizabeth Eger, ’Luxury, Industry and Charity: Bluestocking Culture Displayed’ in Maxine Berg and Elizabeth Eger (eds.), Luxury in the Eighteenth Century: Debates, Desires and Delectable Goods, Palgrave, 2002, p.192.

(15) Smith, op.cit., pp.42−43.

(16) M.J.ボクサー、J.H.カタート(林達訳)『近代西洋女性史』学文社、1995年、pp.10、85−86。

(17) Judith Jennings, The Business of Abolishing the British Slave Trade 1783−1807, Frank Cass, 1997, pp.4, 28.

(18) Behrendt, op.cit., p.199.

(19) Ibid., pp.199−201.

(20) 浜林、前掲論文、p.59。

(21) 浜林正夫「イギリス奴隷解放運動と急進主義(続)」八千代国際大学紀要『国際研究論集』10−3、1997年、p.10。

(22) 市橋秀夫「イギリス奴隷貿易廃止運動の史的分析(1787−1788年)」『三田学会雑誌』81−4、1989年。布留川正博「イギリスにおける奴隷貿易廃止運動 − London Abolition Commitee の活動を中心に −」『経営学論集』(龍谷大学)、37−4、1998年。

(23) Jennings, op.cit., p.24.

(24) Ibid, p.15.

(25) Ibid., pp.1〜2. 山本通『近代英国実業家たちの世界:資本主義とクエイカー派』同文舘、1994年、p.114。

(26) 山本、同上書、pp.114−115。

(27) Jennings, op.cit., p.16.

(28) Ibid., p.95. 山本によると、ラスボーン4世は1784年に英国で初めてアメリカ産の綿花を輸入した商人である。彼は1786年にコウルブルックデイルのリチャード・レイノルズの一人娘ハナ・メアリ・レイノルズと結婚した。山本、前掲書、p.126。

(29) Jennings, ibid., pp.103−4.

(30) Ibid., p.129.

(31) Ibid., p.14.

(32) バーミンガムのロイド家やコウルブルックデイルのダービー家など、クエイカー教徒の鉄工業者は危険な投資をせず、破産するフレンズ派を非難し、平凡な服装をし、倹約と質素な生活様式で、信頼と尊敬を得ていた。J.R. Harris、The British Iron Industry 1700−1850、Macmillan、1988、p.69. なお、1765年、バーミンガムの鉄細切工場を経営していた製鉄業者サンプソン・ロイド1世(1664−1724)の息子のサンプスン2世(1699−1779)と孫のサンプスン3世(1728−1807)が、バーミンガムのボタン製造業者ジョン・テイラーとテイラー2世とのパートナーシップで、テイラーズ・アンド・ロイズ銀行を創業した。これはバーミンガムで創業された最初の銀行であった。サンプスン3世が1770年にジョン・テーラーたちとロンドンで開設した銀行と、バーミンガムの銀行が1889年に合併して、ロイズ銀行が誕生する。山本、前掲書、pp.170−171。

(33) Jennings, op.cit., pp.23, p.31 n.7.

(34) バリー・トリンダー『産業革命のアルケオロジー:イギリス一製鉄企業の歴史』新評論、1986年、pp.168−169。

(35) Jennings, op.cit., p.8−9.

(36) Harris, op.cit., p.50.

(37) Jennings, op.cit., p.35.

(38) Ibid., p.26.

(39) Ibid., p.28.

(40) 浜林、前掲「急進主義(続)」、p.27。

(41) Jennings, op.cit., pp.6, 27, 35.アダム・スミス(竹内謙二訳)『国富論』東京大学出版会、1969年、pp.20−21。

(42) Ibid., p.108.

(43) Ibid., pp.126−128, 131−132, 134−135.

(44) Ibid., p.5.

(45) 山本、前掲書、pp.119−120。

(46) 浜林、前掲「急進主義(続)」、p.23。

(47) Paul Langford, A Polite and Commercial People: England 1727−1783, Clarendon Press, Oxford, 1989, pp.516−518; Jennings, op.cit., p.38.

(48) 小嶋潤『イギリス教会史』刀水書房、1988年、pp.190−192。

(49) 同上書、pp.192−193。C.A.Bayly, Imperial Meridian: the British Empire and the World 1780−1830, Longman, 1989, p.133.

(50) 同上書、pp.194−195。

(51) Jennings, op.cit., p.62.

(52) Ibid., pp.65, 69, 71.

(53) Ibid., p.79.

(54) Ibid., pp.80, 84; ’Bertie, Willoughby, fourth Earl of Abingdon 1740−1799’, Dictionary of National Biography on CD−ROM, 1997.

(55) Ibid., p.85.

(56) Ibid., pp.99−100, 110.

(57) 川北稔「福音主義者の理想と奴隷制の廃止」、松村昌家(他編)『新帝国の開花』(英国文化の世紀1)研究社、1996年、p.85。

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