イギリス大西洋奴隷貿易擁護論

 英文題名:Pro−slavery for the English Atlantic Slave Trade

 児島秀樹(Kojima Hideki)

 明星大学『経済学研究紀要』第35巻第2号(2004年3月)、pp.33−44、掲載論文

1 はじめに

 1807年の奴隷貿易廃止に関連して、奴隷貿易の擁護と廃止の双方から、さまざまな議論が提出された。廃止反対論、すなわち奴隷貿易擁護論の中で、もっとも強力なものは、奴隷貿易・奴隷制度が廃止されると、英国の商業、海運、製造業は大きな損失を受け、地租は高くなり、海軍力は衰微し、敵国フランスは利益を得る、といった経済的・政治的論点であろう。1)国策を決定する際の視点として、政治・経済の重みが増すにしたがって、道徳・宗教への関心は薄れていった。英国の産業革命時代、そして、奴隷貿易が廃止された時代は、ちょうどその過渡期であったと言えるかもしれない。奴隷貿易の廃止自体が経済的な事柄ではなく、宗教・倫理的な論争を通して、人道的に廃止されたと理解する研究者が多いので、ここでは、政治・経済的な論点ではなく、道徳・宗教的な論点を中心に見ていく。2)

 奴隷貿易廃止論には、現代の人権思想につながる要素が多くみられ、現代人にはなじみが深い。それに対して、奴隷貿易擁護論は現代から見ると、既得権の正当化、自己弁護、言い訳などの、悪い印象を与える言葉で表現できる論点で終始しているかのように見える。しかし、国王ジョージ3世は、王国の安寧(well−being)に対する脅威であるとして、奴隷貿易の廃止に反対し、奴隷貿易の維持を王としての義務と考えた。3)当時、国王の政治的発言力が弱くなっていたとはいえ、「上」の者に従うという意味での権威主義的社会では、国王のこの意向を無視することは、かなり難しかったのではないであろうか。廃止論が戦った相手は強力であった。

 「長年の慣習に基づく権利」4)を守り、あるいは、特定のパターン認識(慣習の枠組み)に固執する保守思想の場合、現代でも、上に従うという意識が強く見られる。擁護派からすると、「解体できないし、実際、解体されるべきでない根拠と出来事の偉大な連鎖(great chain)において、ニグロ奴隷制は必要欠くべからざる部分である」と見えた。ここでは慣習が連鎖と言い換えられているが、その連鎖は巨大で、賞賛すべきであり、完全な全体(stupendous, admirable and perfect whole)であると意識されるものであった。5)奴隷貿易廃止派は、変化に対する、このような本能的な嫌悪とも戦わなければならなかった。

 アンチオープが述べているように、確かに、奴隷貿易擁護派が提出した「黒人に対する否定的評価の究極の目的は、プランテーション経済の原動力たる黒人奴隷貿易と奴隷制度の正当化にあった」。6)神によって不毛の地を与えられた黒く汚れた不道徳な人々、理性をもたない劣等で、本能に操られる人々であると、黒人を否定的に評価すると、自動的に、その評価者自身が善人として位置づけられる。虐げられる者が、同じ手法で、虐げる者の悪人化をはかろうとすると、多くの場合、悪口を言うなと一喝されて終わる。廃止派はこの思想とも戦ったが、人種差別意識は20世紀にも残存した点を考慮すると、1807年の廃止派の勝利の要因はここにはなさそうである。

 廃止派が戦い、ある程度、勝利したのは、どのような擁護論であったのであろうか。大西洋奴隷貿易に関して、人種差別的な擁護論に関しては、我が国でも、いくつかの論点が明らかにされている。7)ここでは、18世紀末から19世紀はじめにかけて提出された擁護論を大きく見ておく。

 なお、「廃止」(abolition)という言葉は、アメリカ合衆国では南北戦争での奴隷制の廃止を頂点とする運動に対して利用されたのに対して、イギリスでは1807年の奴隷貿易廃止に至る運動に対して利用されたため、合衆国では奴隷制の廃止を、英国では奴隷貿易の廃止を意味する。しかし、奴隷貿易廃止を主張した運動自体、本来は奴隷制の廃止を求めていたので、ここでは擁護、廃止、反対などの言葉を、奴隷貿易に対するものだけに限定しないで、奴隷制度と奴隷貿易の双方に対して利用する。実際、18世紀末から19世紀はじめに展開された奴隷貿易廃止に関連する議論でも、貿易と制度は必ずしも明確に区別されていなかったようである。

2 奴隷貿易正当論

 ライデンが述べるように、奴隷制擁護論は明らかに「あからさまな利己心に基づいているが、18世紀に植民地とハノーヴァ朝英国でみられる民族、労働、権力に関する姿勢に対して、強力な洞察力を提供している」。8)むしろ、利己心に基づいているからこそ、現代でも、特定の制度を維持するために喧伝される「正当化」の論理は人々の常識や社会通念を形作るものである。自分を悪くは言いたくない。そして、通常それらは思考のルーチンを形成することで、多くの場合、保守的態度となって現れ、単純で分かりやすい論点として指摘される。すでに存在しているものは単純で理解しやすい。今から確立するものは、まだ試行錯誤の中にあり、理解しがたい。

 擁護論は人道主義的廃止論への感情的な反発をあらわにした。1766年から89年にかけて西インド諸島で暮らし、400人の奴隷の所有者でもあったフランクリンは、1788年のパンフレットで、「イングランドから送られてきた雑誌、新聞、評論から西インド諸島のニグロ奴隷所有者に対する、執拗に繰り返される、多くの中傷を学んだ」といい、奴隷制は聖書でも認められているのに、もし奴隷貿易反対運動が成功して、西インド諸島の住民から財産が奪われるとすると、奴隷にかわって、彼ら自身が「奴隷になるであろう」という被害者意識を隠すこともなかった。9)聖書の権威によって正当な行為として認められている事柄に対する非難は、誹謗・中傷にあたる。人権の擁護(奴隷制の廃止)は、聖書に従う良識人(奴隷所有者)に対する中傷行為であった。奴隷を所有するのは悪いことであると理解している現代の「良識」を前提にすると、奴隷貿易廃止派の困難な戦いが理解できなくなる。廃止派の主張が現代の「良識」になっているにすぎない。

 奴隷貿易擁護論の中心的な論点の一つは、奴隷貿易を禁止しても、アフリカ人を救済することにはならない、という点であった。1789年に匿名のプランター(以下では、A氏と表記する)は、アフリカの君主が怒りに任せて臣民を殺してしまうといった絶対的な法の存在や、奴隷貿易が始まるまでは、アフリカ人は戦争ばかりしていて、捕虜を殺していた点を指摘して、このような支配者の下で暮らすことは、自然の心情に反すると主張した。10)もちろん、イギリス人と同様、アフリカ人も戦争をしていて、捕虜を殺すこともあったので、全く事実に反するというものではないが、イメージ戦略のために事実をデフォルメして、他者(アフリカの君主)を悪く表現した。

 この方向での正当化論は、のちには、他国を征服・支配するためのイデオロギーとなる。悪い支配者の下で呻吟している民衆を救うために、民主的で自由な良い社会が文明の恩恵をもたらす。

 1787年の奴隷貿易廃止協会(the Society for Effecting the Abolition of the Slave Trade)設立以前には、的確かつ体系的に、奴隷制を悪く表現する思想体系はなかった。もちろん、奴隷制は良くないという意識はあった。1620年代のジョブソンのように西アフリカの現地商人に、英国民は奴隷売買はしないと主張できた者もいたし、社会契約説を説く者にも、そのような意識が存在していたのは、疑いがないであろう。11)しかし、近代奴隷制が本格的に始まると、「奴隷制主義者は『黒い人間』の否定的なイメージを創造し、全人類の罪業を背負った唯一の者とすることにいかなる躊躇もなかった」。12)奴隷を利用することに罪意識を感じなくて済むように、黒人は罪業を負っているから、白人は黒人を奴隷として利用していいという単純な論理、善悪論を利用した。

 現在でも西欧人の中には似非科学的に、白人と異なり、アフリカ人は熱帯気候に適応しているので奴隷労働として活用された、と思っている者もいるが、この論点は擁護派によって主張されている。13)アフリカ人が白人より西インド諸島の気候に適していても、実際には、西欧人のために奴隷として働くのではなく、自活して、あるいは、賃金労働者として働いてもいいので、このような論点は最初から支配者意識を持っている人ならではのものである。

 17世紀までは、似非科学的な発想ではなく、奴隷となる人たちの特徴を明らかにする、という態度が主流であった。黒人は人種として劣っているとは言わなかったとしても、理性を持たないから、黒人は奴隷になる、と。14)この意識を強化するために、英仏の奴隷貿易が本格化する17世紀頃から、西欧人は黒人の悪口を言いつのった。紀行文や商人の情報によって、18世紀までに受け入れられた見解では、黒人は外見上・肉体的に、縮れた髪、押しつぶされた鼻、厚い唇、湾曲した脚、ふくらはぎがないほど細い脚、不格好に盛り上がった頬、突き出した顎などといった、西欧人には評価できない特徴を持っていた。精神的・性格的に、黒人は野蛮、不品行であり、嘘つきで、放縦、怠惰、復讐心が強く、盗みや賭け事が好きで、馬鹿げていて、鼻持ちならず、鈍感、意固地で、過ちを認めず、大食いであり、生意気、高慢、淫乱であり、本能的情熱・愛欲に翻弄され、野獣であった。そして、文化的・能力的に、黒人は愚かで、異教徒であり、扇情的なダンスを好むと主張された。

 自分と異なることを悪く評価するのが、差別意識の基本である。誰でも自分自身のことはよく理解できるため、自己中心的な人間の場合、個人的性格や社会体制に関する悪口は、相手の特徴を理解しているというより、鏡のように自分自身を明らかにしている場合が多い。この経験則を適用すると、西欧人自身の性格が浮き彫りにされる。

 肌の色に基づく人種差別意識が根づくのは19世紀かもしれないが、黒人に対する差別意識自体は奴隷貿易とともに始まった。差別意識というより、異人に対する本能的な恐れと言ったほうがいいかもしれない。特定の集団を差別し、ののしることができれば、自分たちの結束が強まるという社会意識は、遅くとも共同体的集団で生きていた中世の身分制社会で明確に確立したものであろう。そして、奴隷貿易正当化論に見られるような近代社会の差別意識はその延長線上にあるものと考えられる。

 奴隷貿易廃止協会の設立のように、奴隷制にもとづく18世紀の重商主義体制の変更を求める運動に接して、はじめて、それを弁護する体系的な思想が必要となった。

 マカーティ船長は「西インドプランターと商人に向けて投げかけられた悪口雑言の数々はこの国[大英国]固有の良識(good sense)を圧倒している」と述べたが、これがその一つである。15)擁護派は、人権宣言をうたったフランス革命の動きや、1791年に始まったハイチ革命はもちろん、人間の権利を主張したトマス・ペインの思想も危険であると考えたという意味で、富や肌の色の違いを問わず、すべての人間を平等に扱う人道主義を良識のない者の思想であると理解した。実際、1790年代には擁護派の意識が支持されたため、1792年に成功しかけた奴隷貿易の廃止は過激派の策略にすぎないと邪推されて、延期された。

 18世紀末にバプティストやメソディストは国内の下層労働者だけでなく、黒人に対する布教も始めるようになった。1823年に奴隷制度廃止運動が再開されたときには、奴隷制は黒人奴隷という名のキリスト教徒に迫害を加えるものであり、あるいは、奴隷制は宗教的良心の自由や家族生活に敵対していると思われて、宗教と家族を媒介として、奴隷制に対する嫌悪の情が徐々に良識の位置づけを得るようになった。16)

3 権威主義的奴隷貿易擁護

 奴隷貿易擁護論者は基本的に保護者の立場を堅持しようとする。奴隷貿易廃止論者も奴隷の保護者の立場から、その主張を繰り返していたのと、この点で相違はない。しかし、擁護論は保護の見返りに労働を強制できると考え、廃止論は労働の強制が保護の行きすぎであって、人道的に「解放」したほうがいいと考えた。同じ保護であっても、擁護論は主人の意志を慈悲や鞭で押しつけることができる保護であるのに対して、廃止論はそのような状況から解放すること自体を保護と理解している。前者は「子煩悩」な親かもしれないが、後者は子供の環境を整える親である。保護と支配は紙一重の関係にあり、その実際の姿は表裏一体をなし、しばしば区別するのが困難である。群れをなして生活する人間の性(さが)かもしれないが、18世紀には、それは家父長的形態で現れていた。

 奴隷制擁護論はまず、奴隷貿易が英国人とアフリカ人の生活の改善を促進すると主張した。擁護派の慈善論によると、奴隷社会は、工業化された自由な英国社会よりもっと人情に篤く、慈悲深い。人種差別思想の多くも、この慈善論が含まれている。

 奴隷は確かにほんの一部の強欲な奴隷主によって、過酷な労働に従事させられ、鞭打たれるかもしれないが、通常、奴隷主からその生活を保護されていて、親が子に対するように、人間的なつながりを維持し、情が通じる。人情や慈悲といった、人間と人間の共同体にふさわしい情緒的、感情的なつながりが維持されているのが、奴隷制の本来のあり方である。A氏は、奴隷貿易の廃止が他国を利することにしかならないと主張したあと、解放された奴隷は食料も保護も与えられず、ヴァージニアやニューヨークなどのニグロと同様、路上で死ぬだけであると指摘した。奴隷制のほうが慈悲深い法(humane law)に従っている、という訳である。17)

 保護の権力(patronage)は特定の人間をひいきする思想と親和性が高い。18世紀の英国は保護の権力が政治を動かしていた社会である。アメリカでは、世界の指導者としての責任感で、国家が人類愛をひろめていくためにも、奴隷制の廃止が要求されたとも言われる。18)奴隷は保護される存在であって、路上で死ぬことができる自由な個人ではない。保護が強制されるとき、保護を強制された側は反乱でしか、自己の回復ができない。実際に、しばしば奴隷は反乱を繰り返した。直接的な暴力が維持されるのが、この保護・被保護関係である。しかし、直接的な暴力は許し難いものであろうか。

 奴隷貿易廃止に尽力したウィルバーフォースをはじめとしたクラッパム派は英国国教会の福音派であったが、同じ福音派であっても、擁護論者として活躍したノックス(William Knox)はこの点を雄弁に物語る。ノックスはニグロの所有者であるとともに、ウェイルズの地主でもある。ウェイルズの小屋住農とその妻子に対して、ノックスは食料や衣服をあてがうことはなく、彼が働くときだけ賃金を支払い、病気や天候不順に際して、地主としてのノックスには何らの負担もかからない。小屋住農が老いれば、教区に処分して終わりである。他方、ニグロに対しては、ノックスはニグロの家族に対して、衣食住を用意し、病気・天候・老齢に対しても、ノックスがその世話をする。自由な英国人(free−born Englishman)は飢え、寒さ、投獄の恐れを回避するために働き、生活が保証されたニグロは鞭打ちの恐れを回避するために働く。19)

 農民が自分の財産である家畜を世話するのと同様に、奴隷主が奴隷の生活を考えないことはない点を指摘したあと、フランクリンは救貧法が適用されている、英国の状況を比較する。多くの子供をかかえた貧しい労働者が病気になると、農企業家(farmer)は労働者を打ち捨てる。むしろ、農企業家は労働者を雇う前に、病気になっても責任を負わなくて済むように、教区の証明書を要求したり、あるいは、定住権が与えられるより短い期間だけの雇用契約を結ぶものである。ベッドに横たわる労働者は荷車に乗せられ、劣悪な道を荒れた天候の中、困窮した妻子をともなって、あてどもなく、受け入れてもらえる教区を探す。20)定住法によって生み出された、貧民の、いわゆる、教区たらい回しの光景である。フランクリンもそうであるが、保護者になりたがる人たちは、一般に、事実に近い物語を作成するのがうまい。

 A氏は雇用の確保によって妻子が養われる点を指摘する。奴隷貿易は神の法(divine law)に反するようなものではなく、それによって、アフリカ人が求める玩具、道具、金物の製造のために、ロンドン、マンチェスター、シェフィールドなどで数千人の勤勉な人たち(industrious men)が雇用され、そのか弱き妻子にパンを与えることができる。21)A氏は勤勉という意味での善良な労働者、すなわち、保護されるべき労働者だけでなく、妻子に注意を向けることで、保護者としての心情に訴えた。英国内での温情の心に訴えたのである。たとえ実際にはプランター自身は勤勉ではなかったとしても、A氏は勤勉な労働者をたたえるのに、躊躇しない。勤勉は一部のプロテスタントの徳ではなく、当時はすでに常識となっていたと理解できる。もちろん、通常の無批判な前提では、富を持つプランターの勤勉性の証明は必要がないものであると理解されていて、論争にもならない。22)

 同様に、商業に道徳が必要であることも、奴隷制擁護論者に認められている。ノックスによると、商業の民の代表者にとって名誉なことは、「その原則において正直でない取引は何であれ、その産物がどれほど儲けがあろうと、追求してはならない」ということではないか。23)暴利をむさぼるものではなく、正直な取引(honest trade)を行うことは、当然であるという意識である。擁護論者は自己正当化のために、正しい行為に従事していることをアピールする。

 奴隷貿易擁護論者は廃止派によって主張されたアフリカ人に対する残虐な扱いが、キリスト教的で啓蒙された政府においては、衝撃的であることを認める。しかし、奴隷の所有者がそこまで自分の財産に危害を与えることはないと主張する。そして、擁護派は鞭打ちをはじめとした、奴隷に加えられる肉体的暴力が非難されるものではないと、ほのめかす。多くの場合、比較対象にされるのは、船員、兵士、貧民である。兵士は個人的自由を犠牲にしている。個人的自由を犠牲にする必要がある職業においては、時には強権によって、職業倫理を守らせる必要がある。ノックスは主張する。「自由身分の英国の船員は自分が納得できない仕事を強制されないであろうか。必要な義務を拒否しても鞭打たれないであろうか。肉体的に可能であると監督に判断された仕事を拒否したときに、労役院に収用された窮民は罰を受けないであろうか。」24)

 多数の奴隷を働かせるためには、規律が必要であり、規律を強制するためには、肉体的な懲罰の脅しも必要になる。いわば終身雇用の奴隷は、鞭打ちの恐怖によって労働規律を教えられ、解雇が可能な賃金労働者は失業の恐怖によって労働の規律を教えられる。

 正しい行動規範を教えるときには、日本語の「しつけ」という言葉が象徴しているように、肉体的な暴力を犯罪と思わない人が多い。A氏は矯正のために必要な肉体的懲罰は犯罪とは言えないと主張する。軍法は陸海の兵士に鞭打つことを認めているし、実際に、奴隷でもとがめられないほどの小さな罪でさえ、兵士は鞭打たれる。25)A氏の指摘に対して、私たちは19世紀後半まで教育のために行われていた、子供の鞭打ちを付け加えてもいいであろう。

 その一方で、全く逆に、奴隷制擁護論者の中には、奴隷の扱い方に残虐で、非人間的な事例があるのを認めて、誠実に議論に参加している振りをする者もいた。しかし、少数のそのような事例を指摘することで、奴隷貿易の廃止のような貧弱な政策を採用するわけにはいかない、と主張する。もっとも自由な国でさえ、個人の生活や自由は制限されているものである、と。擁護論者にとって、監獄と救貧法がもっとも理想的な比較対象であった。囚人は「不幸な自由人」であり、英国の土地で、一種の奴隷制に還元されている。現代の歴史家もこの論点を意識している。1807年の奴隷貿易廃止法は、「自由人全体の中での社会的不平等の原理はそのまま認めてい」て、「国内では古典的な戒律がまだまだ優勢であった。法が人の身分を確認し、節度がそれを保持するというのである」。26)端的に表現すると、奴隷貿易廃止派は、国内の不平等には、手をつけなかった。

 現代では、鞭打ちのように、他人から加えられる「懲罰」で行動を規制していくのではなく、自分の意思で行動を規制していくのを常識とする人のほうが多いであろう。擁護派の意識はその逆で、実際の現場では、懲罰を加える必要がある場合もあり、保護者には懲罰権が備わっているというものであろう。懲罰は保護の代償である。

 英国の労働貧民と奴隷の違いはほとんどない。「自由な英国人」である労働貧民は実際には、自由を享受していないくて、失業の恐怖のため、卑屈に雇い主の意思に従っている。それに対して、奴隷は奴隷主の保護のおかげで物理的欠乏から逃れているので、鞭打ちのような直接的な暴力でしか、つらい仕事を強制できない。下層民は楽をして生活したいという根源的な欲求があり、その強欲を矯正するためには、恐怖による強制が必要となると考えた。

4 法・経済的奴隷貿易擁護論

 奴隷貿易廃止論者は、戦術として、まずは奴隷貿易の廃止を要求し、次に、奴隷制度の廃止に取り組んだ。その大きな理由に、英国の憲法がある。財産権は神聖である。奴隷の所有と奴隷貿易は切っても切れない関係にある。廃止論者が当面は回避した問題を、擁護論者は取り上げた。奴隷貿易が否定されることは、奴隷の所有が否定されるのと、実質的には同じである、と。

 フランクリンは、「プランターは当然のことながら、植民地はもとより英国の法によって、これらの人々[奴隷]を財産(property)とみなしていいと思っていた」と主張する。そして、プランターの想定に反して、奴隷は自分たちを少なくとも劣等の白人と同格と思って、主人から逃げていく、と。もちろん、擁護論者は主人の精神的、肉体的暴力を不問にして、奴隷が逃亡することを、悪徳に染まったとか、社会の誘惑に負けたと表現する。フランクリンによると、単なる「自由や仁愛」(liberty and humanity)という名のために失われた金額は100万〜120万ポンドを下らないし、逃亡奴隷の大半は惨めに死んでいく。27)

 奴隷制が否定されると、奴隷以外の財産も減額する。耕地には耕すものがいなくなり、未耕地の市場価格は低下する。そのため、稼働中の所領の市場価値も低下する。自分たちの祖先は奴隷貿易が続くのを前提に、所領を開拓した。奴隷貿易の廃止で西インド諸島の経済は衰退する。労働人口減少は投資の減少を招き、それによって貿易は衰退する。貿易の衰退で、砂糖関税が減少し、帝国経済の中心が大打撃を受ける。

 投資の対象が所領の購入のための資本の提供にあったのか、それとも、交易のための資本の提供にあったのかは、ここでは問題にされていない。所領の開拓にイギリス本国の資本が投資されたかどうかは、不問にしておいて、開拓された結果としての所領経営の維持に論点がある。現在は、砂糖貿易商はプランターたちに、可能であれば抵当を設定して、資本を提供したという説が有力である。英国の富が西インド諸島の経営に必要であり、西インド諸島に資本投資が行われた。28)

 ジェントルマン資本主義論では、18世紀にもっとも成長した部門は政府と防衛であった。軍事のために財政支出が増大し、国債を償還するために、高関税体制を採用して歳入の増大を求め、市場原理にそった諸政策を実行した。モーガンも18世紀のイギリスがフランスを抑えて、重商主義帝国として成功した理由として、財政軍事国家としての側面や、商業信用、海上保険市場、銀行業の発展を指摘しているが、帝国の貿易遂行にとって、西インド諸島向けの商船保護は重荷であったとしている。当時すでに、「護衛艦による砂糖商船隊の保護と、カリブ水域で外国の掠奪から守るのに必要な海軍力は費用の無駄遣いであり、そのため、保護された英国市場で砂糖がいっそう高価となり、その費用は消費者に転嫁される」と考えた人々もいて、モーガンは国家として西インド諸島の保護は重荷であって、その投資は商人やプランターの個人的な利益となっていたにすぎなかったと主張した。29)

 擁護論者は軍事と経済は不可分のもので、英国が退いた市場は、他国が埋めると主張する。その結果、奴隷貿易で繁栄する港町であるブリストルやリヴァプールだけでなく、奴隷貿易に商品を提供している産業で繁栄する町も打撃を受ける。前述したように、A氏はロンドン、バーミンガム、シェフィールドなどで数千人の勤勉な人々が雇われ、それで妻子が養われている点を指摘する。30)人道主義政策はこのような、勤勉で、家族思いの労働者に対して、罰を与えることになる。

 プランターたちは英国議会で自分の利益の代弁者が少なかったので、「帝国」の繁栄を維持するのに奴隷貿易が必要であることを主張せざるをえなかった。当時の人々はプランターとその支持者をおおざっぱに「西インド利害関係者」(West India interest)とくくった。彼らは西インド居住者、不在地主、カリブ海やアフリカと交易する商人からなっている。砂糖交易の重要性や、これらの交易関係を成り立たせている工業製品の生産者の利害も、考慮する必要がある。

 西インド植民地は北アメリカ植民地以上に英国の政策に依存する構造になっていた。奴隷貿易と奴隷制の維持は軍隊に依存することが多かったし、アフリカからの奴隷の購入、北アメリカ植民地からの生活資料の入手、糖蜜やラム酒の販売は、かなりな程度、重商主義政策に依存していた。1775年頃には西インドの白人の富は1人あたり、英国本国の15倍もあったといわれる。31)

 西インド利害の中心に、ロンドンの西インド商人・プランター協会(the Society of West India Merchants and Planters)があった。この協会は西インド交易に従事するロンドン商人が課す自前の輸入税で運営されていた。プランターを中心とする人々は西インド桟橋(West Indian docks)の建設をはじめとした運送料の設定、埠頭使用法、戦時の商船保護などを仕切り、商人を中心とする人々は植民地防衛、航海法の強要、課税など、砂糖製造に関連するそれ以外の問題を扱った。奴隷貿易廃止運動の盛り上がりに対して、もっとも強力に抵抗したのが、西インド商人・プランター協会であった。ジャマイカ議会のロンドン代理人であるフラー(Stephen Fuller)は擁護派の中心人物であり、この協会の運営者の一人であった。32)

 擁護派は経済理論の応用にもたけていた。擁護派によると、奴隷貿易は合法的であり、アフリカ人自身が奴隷の提供を望んでいるし、それによって過剰人口に対する雇用が生まれる。奴隷貿易が吸収している者は、現地の経済にとって価値のない者である。奴隷貿易がなくなれば、捕虜や囚人は殺害されるか、あるいは、異教徒の支配者によって過酷な扱いを受けるはずである。奴隷需要の増大による奴隷価格の上昇は、アフリカの支配者による気まぐれ・虐待を抑制する効果をもつ。西インド利害を代表する意見として、フラーはRemarks on the Resolution of the West India Planters and Merchants (1789)で次のように主張した。

 「広大なアフリカ...の住民は生存手段より早く増加し、仁愛(Humanity)自体、この余剰分を売買の対象として、啓発され人口の少ない国々へと、その輸送を余儀なくさせられる。この国々は常に労働が必要とされていて、彼らを財産、保護、雇用として受け入れる。」33)

 仁愛の心があれば、アフリカ社会の底辺で呻吟する人々を救って、西欧社会に受け入れることを考えるはずである、というものである。そして、ついでに、人口過剰の国々から、人口の少ない国々に、人口移動が生じるのも自然法則であると、主張したいのかもしれない。

 マルサス(Thomas Robert Malthus:1766−1834)の主観的意図に反して、その人口論も擁護論に利用された。マルサスは『人口論』の初版(1798年)では、奴隷人口の動態について論じなかったが、第2版(1803年)では、「ローマ人の人口制限」でそれをとりあげ、古代ローマの人口動態に関するデイヴィッド・ヒュームとロバート・ウォレスの論争で、ヒュームに軍配をあげる形で、奴隷の継続的な輸入が必要になるのは奴隷制が人口増大にとって阻害的影響力を持っているからであると論じた。マルサスの人口論を初めて利用したのは、労働者を擁護していたコベット(William Cobbett)の『政治録』(Political Register, 1805)とロバート・ヘロン(Robert Heron)の『ウィリアム・ウィルバーフォースへの手紙』(Letter to William Wilberforce, 1806)であると言われる。34)

5 まとめ

 ここでは人道的、あるいは、宗教・道徳的な話題を中心として、擁護派の論点を整理した。奴隷貿易廃止に関する議論では、重商主義政策や帝国経済構造の話題も、かなり詳しく論じられているが、ここでは、あまり取り上げなかった。

 奴隷制は悪いものである、という意識が強い現代社会からみると、奴隷貿易を擁護する人たちは自己正当化のために、さまざまな論点を拾い上げて、それぞれに「支配者」「主人」の視点からは当然に見える主張を繰り返したと理解される。既得権にしがみつく人たちが自己正当化のために利用する際の思想の姿勢は、たいてい、この構図になる。その社会の指導者、上に立つ者の立場から見た視点が、すべての人に受け入れられなければいけなくて、そうしない人は悪い人である、という構図である。

 「支配」 という社会関係がある限り、この類の思想がなくなることはないであろう。ここでは、この点よりも、18世紀的な保護(patronage)の思想が、19世紀的な自由競争の思想に、転換していく際に、どのような論点が提起されてきたのかを、確認しておきたい。

 奴隷貿易の廃止にあたって、人種差別意識や異人嫌悪的な発想は話題になったとしても、それが中心的な論題ではなかった。論点の一つは権威主義的な保護の体制である。中世の封建制のように、直接的に特定の個人が特定の人たちを保護し、養うことが許されるのか。19世紀以降の自由経済社会を知っている人たちからすると、社会の底辺で暮らす人たちの生活保護は、個人的に行うものではなく、社会的に行うのが正当である。そうであって初めて、個人の「自由」が達成される。そして、イギリスでは16世紀以来の救貧法によって、大陸諸国よりも明確に、個人や団体の慈善ではなく、国家とその末端組織である教区が福祉政策の責任者となる方向性が打ち出されていた。

 擁護論は失業と鞭打ちを比較しているが、まさに、これが問題であった。個人の恣意(鞭打ち)から解放されるために、失業せざるをえない経済社会体制を選んだほうがいい。個人的意図が色濃く反映される共同体や権威からの自由が、ここでは問題となっていた。経済学はまだ始まったばかりの時代である。

 鞭打ちに象徴される肉体的な懲罰による労働の強制、あるいは、教育体制も、ここでは検討の材料になっている。擁護派は軍隊、労役院、監獄など、国内で行われている懲罰と奴隷の鞭打ちを比較して、どちらも同じであると論じた。個人の自由を前提にすると、肉体的であれ、精神的であれ、特定の人間が保護者として懲罰を与える権利を持っていること自体、許されないことである。そのような権利が特定の人間に与えられている体制そのものが、ここでは問題とされていた。

 奴隷貿易の廃止にあたって、擁護派が提起した、これらの論点が明確に否定されたのであろうか。おそらく、そうではなく、19世紀を通じて、徐々に、現代人が想定している個人の自由が根づいていったものと思われる。

 1) 奴隷貿易廃止の悪い結果を予想するこの手法は、奴隷貿易廃止論の中心的人物であるウィルバーフォースが1789年に下院で発言したときに、被害意識をあおり立てがちな擁護派の論点の一つとして、指摘したものである。Roger Anstey, The Atlantic Slave Trade and British Abolition, 1760−1810, Macmillan, (1975), pp.313−314.

 2) 奴隷貿易廃止がプランテーションの経済的な失敗によるものと理解するE.ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』(1978年)に対して、ドレッシャは経済的に成功していたにもかかわらず廃止されたと理解した(Seymour Drescher, Econocide: British Slavery in the Era of Abolition, University of Pittsburgh Press, 1977)。現在はドレッシャの説が有力であるが、ライデンをはじめとして、経済的な失敗によって廃止されたとする説も強力に展開されている。David Beck Ryden, ’Does Decline Make Sense? The West Indian Economy and the Abolition of the British Slave Trade’, Journal of Interdisciplinary History, 31−3, (2001)。ライデンは、ウィリアムズのように早期の破綻を設定するのではなく、砂糖貿易に関する重商主義的な政策が大陸の砂糖市場への参入ともに維持できなくなり、1803年以降、砂糖産業は危機に陥ったと主張する。

 3) Anstey, op.cit., p.304.

 4) 「長年の慣習に基づく権利」はエドムンド・バークの『フランス革命の省察』(1790)に対するウルストンクラフトの批判の書、『人間の権利の擁護』に出てくる用語である。安達みち代『近代フェミニズムの誕生: メアリ・ウルストンクラフト』世界思想社、2002年、p.114。彼女はバークの保守思想の根底に流れる、軽蔑すべき本能的部分を、「長年の慣習に基づく権利」としての慣習遵守、自己防衛本能(読者に訴える雄弁な感受性)、自己正当化に必要な物語性などに求めた。ここには保守思想家の感情、情念、慣習に対して、フェミニスト思想家の理性、神の法、良心、健全な原理の対立図式が見られる。おおざっぱなところでは、奴隷貿易の擁護論・廃止論と似た図式になるが、バークは奴隷貿易廃止派である。

 5) 擁護派の一人、George Turnbullの1786年のパンフレット、cited in Anstey, op.cit., p.294.

 6) ガブリエル・アンチオープ『ニグロ、ダンス、抵抗』人文書院、2001年、p.84。

 7) 池本幸三・布留川正博・下山晃『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』人文書院、1995年、pp.34−38では、主に聖書や進化論を利用した奴隷制のイデオロギーが紹介されている。そのイデオロギーに対して、ウィルバーフォースが痛烈な批判を加えていたが、ドレッシャは、廃止派を指導した「福音主義は明らかに、人種に関する科学的イデオロギーの文化的形成に対する抑止力としてはかなり限界があった」として、人種差別意識の跳梁を防げなかった点を指摘している。Seimour Drescher, ’The Ending of the Slave Trade and the Evolution of European Scientific Racism, in Joseph E. Inikori and Stanley L. Engerman (eds.), The Atlantic Slave Trade: Effects on Economies, Societies, and Peoples in Africa, the Americas, and Europe, Duke University Press, 1992, pp.371, 375.

 8) David Ryden (ed.), The British Transatlantic Slave Trade, vol.4, Pickering & Chatto、 (2003), p.x. ライデン編集のこの本には、奴隷貿易擁護派の6点のパンフレットが収められている。

 9) [Gilbert Francklyn], ’Observations Occasioned by the Attempts made in England to Effect the Abolition of the Slave Trade..., (Liverpool, 1788), in Ryden, ibid., pp.33−35.

10) A Planter, ’Commercial Reasons for the Non−Abolition of the Slave Trade, in the West−India Islands by a Planter and Merchant of many Years Residence in the West−Indies,’ (London, 1789), in Ryden, ibid., pp.12−13.

11) 1620年代はじめのジョブソンの黄金交易に関しては、拙稿「17世紀前半のイギリス・ギニア交易」『大学院研究年報』(中央大学)14−II、1985年、pp.15−17。ホッブズ、ロック、モンテスキューに見られる奴隷概念については、拙稿「西洋から見た奴隷概念の予備的考察」『経済学論纂』(中央大学)39−6、1999年、pp.77−83。

12) アンチオープ、前掲書、p.59。

13) A Planter, op.cit., p.14.ここでは黒人が熱帯気候に適しているという表現はないが、先住民は怠惰で雇用にたえられないし、ヨーロッパ人は熱帯の環境に適応できないとして、黒人だけが熱帯植民地の労働に従事できることがほのめかされている。

14) アンチオープ、前掲書、p.66。フランスでは17世紀に、黒人が人種的に白人より劣っている存在とは認識されていなかったが、異なった人種に属するものとみなされていた。

15) [Capt. Macarty], ’An Appeal to the Candour and Justice of the People of England in Behalf of the West India Merchants and Planters ...(London, 1792), in Ryden, op.cit., p.139.

16) トマス・ペインやフランス革命の位置づけについては、James Walvin, ’Introduction’ and ’the Propaganda of Anti−Slavery,’ in James Walvin (ed.), Slavery and British Society 1776−1846, London, (1982), pp.6, 10, 59, 65−66.ハイチ革命については、浜忠雄『ハイチ革命とフランス革命』北海道大学図書刊行会、1998年。ハイチ革命と同じ年、1791年に「女性の人権宣言」を公刊し、その中で、女性には処刑台にのぼる権利があるのだから、演壇にのぼる権利もあると主張したことで有名なオランプ・ド・グージュは、戯曲『黒人奴隷制、別名、幸いなる難破』も手がけた、黒人の権利の擁護者でもある。現代の日本でも、グージュたちが望んだ人間の尊厳を紙切れ扱いする思想をしばしば耳にする。その意味で、現代でも人権思想それ自体が良識となりつつある段階にすぎないことを考慮すると、18〜19世紀に人道主義が良識の仲間入りするのが困難であったのは、容易に理解できる。奴隷貿易擁護派にとっては、人々が人権思想に毒されると、英国の「良識」が失われる。擁護派にとって、動産である「奴隷」や夫の所有物である「妻」が人間でないのは当たり前である。奴隷は奴隷として、妻は妻として、主人の意志に従って、その役割を与えられ、その意志通りに行動しなければいけない。「DV法」が制定された日本においてさえ、「妻」に個人の尊厳=人格を認めて、家父長の意思を否定し、「婚姻は両性の合意によってのみ維持される」と理解することは許されず、家庭内暴力を我慢しろという女性蔑視思想で「事実」が解釈される場合もあるようである。

17) A Planter, op.cit., p.23.

18) Howard Temperley, ’The Ideology of Antislavery,’ in David Eltis and James Walvin (eds.), The Abolition of the Atlantic Slave Trade, University of Wisconsin Press, 1981, p.33

19) William Knox, ’A Letter from W.K. Esq. to W. Wilberforce, Esq.,’ (London, 1790), in Ryden, op.cit., pp.123−124.

20) Francklyn, op.cit., pp.56−57.

21) A Planter, op.cit., p.10−11.

22) 寺崎宣昭「フィラデルフィア・クエイカーとフランクリン:職業倫理観の形成過程に関する一考察」(梅津順一・諸田實編著『近代西欧の宗教と経済−歴史的研究−』同文舘、1996年所収)は、クエーカー教徒が勤勉の徳を重視していた点を指摘する。奴隷貿易廃止協会の中心的なメンバーにはクエーカー教徒が多かった。なお、中世的な清貧の徳や物乞いの容認にかわって、西欧では14世紀頃から徐々に、勤勉それ自体が高い評価を受ける社会になっていた。宗教的・経済倫理的には、勤勉の態様が問題となる。中世から近代への救貧行政の変化については、河原温「都市における貧困と福祉」(朝治啓三他『西欧中世史 [下]危機と再編』ミネルヴァ書房、1995年所収)参照。

23) Knox, op.cit., p.113.

24) Ibid., p.122.

25) A planter, op.cit., pp.26−27.

26) P.J.ケイン、A.G.ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国』名古屋大学出版会、1997年、p.56。

27) Francklyn, op.cit., pp.35−36.擁護派のこのような自己正当化は、現代でも、「婚姻生活は共同体である」という言い訳をしながら、実際には、結婚を異性の所有権と見なしている人々が、離婚を求める妻を、結婚生活に「我慢ができない」女であるとか、浮気して婚姻生活から逃げていく、ふしだらな配偶者であると断定するのと、全く同じである。他者を意のままに支配・所有する誘惑に負けた人たちは、常に、自分の強欲に相手が従うことを求め、相手がそれを拒否すると被害者意識を持つ。

28) S.D.Smith, ’Merchants and planters revisited’, Econ.Hist.Rev., 55 (2002), p.460.

29) ケイン、ホプキンズ、前掲書、pp.53−54。Kenneth Morgan, ’Mercantilism and the British empire, 168−1815’, in Winch et al., The Political Economy of British Historical Experience, 1688−1914, Oxford University Press, (2002), pp.181−188.

30) A Planter, op.cit., p.10−11.

31) T.G.Burnard,`”Prodigious Riches”: The Wealth of Jamaica Before the American Revolution’, Econ.Hist.Rev., 54 (2001), p.520.

32) Ryden, op.cit., p.xix. Lillian M. Penson, ’The London West India Interest in the Eighteenth Century’, English Historical Review, 36 (1921), p.383.

33) Anstey, op.cit., p.293.

34) B.W. Higman, `Slavery and the Development of Demographic Theory in the Age of the Industrial Revolution’ in Walvin, op.cit., p.177。なお、マルサスの兄シデナムは1799年の結婚でジャマイカの所領を手に入れたが、マルサスは『人口論』の第3版の付録で人道主義の見地から、奴隷貿易と奴隷制に反対した。柳田芳伸『マルサス勤労階級論の展開』昭和堂、1998年、p.165。『人口論』の付録で、奴隷貿易の廃止が論じられている。マルサス(大淵寛他訳)『人口の原理[第6版]』(人口論名著選集1)中央大学出版部、1985年、pp.678−679。

参考文献

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梅津順一・諸田實編著『近代西欧の宗教と経済−歴史的研究−』同文舘、1996年。

ケイン、P.J.、A.G.ホプキンズ(竹内幸雄、秋田茂訳)『ジェントルマン資本主義の帝国I:創生と膨張1688−1914』名古屋大学出版会、1997年。

中矢俊博、柳田芳伸編著『マルサス派の経済学者たち』日本経済評論社、2000年。

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