奴隷貿易廃止を求める近代思想

1.1 個人主義、自由主義(啓蒙主義)

啓蒙思想の時代に、個人主義と自由主義が生まれた。個人主義や自由主義は奴隷制を嫌う。奴隷制と同様に、強制的な労働に見えても、個人主義・自由主義の感性は賃金労働を重んじた。労働それ自体は奴隷労働とあまり変わりがなくても、人々は、他者の許しをえなくても、自分の意思で自分の境遇を改善できる可能性を秘めた賃金労働を好むようになった。

個々人が自分の主人となる。自分の運命・境遇、自分の行動・意識、自分の財産は自分が改善し、自分が守る。そのような個人をお互いに尊重するのが、個人主義である。それに反して、共同体主義は保護者と保護される隷属者がいることを当然視し、隷属者の運命は保護者次第、隷属者の行動は保護者の命令次第、隷属者の財産は保護者次第という意識に固執した。上にたちたがる人間は中世的な共同体主義を放棄できなかった。個人主義は奴隷解放を求め、共同体主義は奴隷の隷属を当たり前と考えた。

1750年代までは、中世的共同体主義の信条が優勢であり、人々は聖書と伝統を重んじた。その信条を疑うものはほとんどいなかった。1760年代から1770年代初めが中世的共同体主義から近代個人主義への転換点である(D.D.Davis, The Problem of Slavery in Western Culture, 1966, p.42)。しかし、共同体主義は個人主義の挑戦によって、近代的な変貌を遂げて、現在もなお残存している。

1762年にジャン・ジャック・ルソー(Jean−Jacques Rousseau: 1712−78)は社会契約論で、誰にも他人を奴隷にする権利はないことを表現して、「ドレイ化と権利、この二つの言葉は矛盾している」(『社会契約論』岩波文庫、p.27)と主張した。ルソーだけでなく、モンテスキューやアダム・スミスなども奴隷制に反対し、18世紀末までに、大半の思想家が奴隷制を非難するようになった。

奴隷が自由を求める戦いは1792年にサン・ドマング島で始まり、奴隷解放は、1804年にハイチ共和国として実現した。

1.2 改革・進歩

17世紀の科学革命による諸発見に続いて、18世紀の啓蒙思想家はその知識の普及につとめた。慣習や権威に従属する中世的発想をやめ、理性にしたがって行動する近代的な行動様式が推奨されるようになった。人間の理性を信頼し、自然の力や人間の好みを斟酌して、新たな社会的調和を人々は求めるようになった。伝統を重んじて、動きが取れなくなった中世的社会と異なり、新たな発見・発明を社会に取り込もうとする意欲がある近代社会、進歩を是認する社会が産声をあげた。1760〜1848年に、啓蒙思想家の影響を受けて、人々は社会改革を進めた。「改革」それ自体が、近代社会の象徴となった。改革者はまず監獄や精神病棟の改善を要求した。奴隷貿易の廃止運動も、この改革の一貫であった。

1.3 人権

19世紀には、自由(freedom)、平等(equality)、博愛(philanthropy)、兄弟意識(brotherhood)が一つの標語となった。

奴隷貿易廃止を求めた人の多くは「自由」を重んじた。身体的拘束からの自由というよりも、他者による保護の拒否、すなわち、専制政治や共同体からの自由である。経済学、あるいは近現代の経済体制はこのような自由を前提として成り立つ。

福沢諭吉の言葉として有名な「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という思想が、平等主義の根底にある。身分による相違を否定して、人々は少なくとも法の前において、平等になった。しかし、現実には、男女差別もあり、地位による差別もあった。そのため、身分差別意識を嫌う平等思想にとっては、奴隷制は廃止すべきものに見えた。身分差別撤廃が近代の思想となった。

自然であり(natural)、原始的である(primitive)ことも、近代の思想にとっては重要な態度となる。誰かの意志に左右される人為的な秩序よりも、自然が好まれるようになった。個人の意志で他者の行動を左右してはいけないという意識である。同様に、身分秩序を連想させる高貴で、欺瞞的=正統的な体制より、人の意志が加わらない原始的で素朴な態度が好まれるようになった。

1.4 福音派の宗教思想

17〜18世紀にフレンド協会(クエイカー)やメソディズムなどの、福音を重視する宗派が生まれた。人間の堕落からの覚醒を求めたカルヴァン派と異なり、福音各派は人間の積極性や善良性を信じる性善説にたち、その道徳的責任から、社会改良、奴隷貿易の廃止に立ち上がった。

クエイカーにも奴隷貿易業者や奴隷所有者がいた。北アメリカ植民地で独立宣言が出された1776年に、フィラデルフィアのフレンド派の年次集会で奴隷を解放しない信者の除名(excommunication)が決定された。北アメリカ植民地の独立がパリ条約で承認された1783年には、フレンド派は英米の議会に、奴隷貿易廃止法の制定を要請した。

ペンシルベニアのクエイカー、アンソニ・ベネゼット(1713−84: Antony Benezet)は『ギニアの歴史』(Historical Account of Guinea)などの著作を通して、アフリカ人の奴隷化に反対した。英国の奴隷貿易廃止の立役者であるグレンヴィル・シャープ(Granville Sharp: 1735−1813)やトーマス・クラークソン(Thomas Clarkson: 1760−1846)たちもベネゼットの影響を受けた。

ベネゼットの思想的影響を受けた一人である、メソッド派の創始者ジョン・ウェズリ(John Wesley: 1703−91)は、1774年のパンフレット(Thoughts on Slavery)で、奴隷貿易に対する反対を表明した。