イギリス大西洋奴隷貿易廃止のための政治経済学
英文題名: Political Economy for the Abolition of the English Atlantic Slave Trade
児島秀樹(Kojima Hideki)
1. はじめに
イギリスの大西洋奴隷貿易の廃止に関して、20世紀後半から、膨大な量の研究がなされてきた。植民地との関係では、北アメリカ植民地と西インド諸島植民地との交易関係が重商主義政策の一つの大きな核を形成していたが、1776年のアメリカ独立宣言とともに、その一角が崩れ始めた。両植民地の間の貿易も、奴隷貿易をなりたたせるうえで重要であったので、イギリスが北アメリカ植民地を失うことは、直接的ではなかったとしても、大西洋奴隷貿易に対してかなりな影響があった。そして、1807年の大西洋奴隷貿易の廃止で、イギリスの18世紀的な国際貿易体制の基本的枠組みが大きく変化し、イギリスの目はもっぱらインドをはじめとしたアジアやアフリカの植民、中南米との貿易に注がれるようになった。大西洋奴隷貿易の廃止で、事実上、重商主義時代が終わりを告げた。あるいは、1820年代の航海法の規制緩和と1849年のその撤廃にいたる歴史、あるいは、東インド会社の貿易独占の廃止の過程を念頭におくと、大西洋奴隷貿易の廃止は、重商主義政策から自由貿易政策への転換の先陣を切ったともいえる。
小松氏はアメリカの独立に対するジョージ3世の恐れを推量する。「王は狭量で硬直した考えを抱いていた。そしてもしアメリカが独立するなら、ただちに西インドがこれに続き、さらに多くの植民地がその後を追うであろうと考えた。彼がなによりも恐れたのは、大帝国の解体であった」。1)大帝国の捌け口として利用されていた北アメリカ植民地は、司令塔であった英国から自力で逃れ去ったが、その胃の腑として利用されていた西インド諸島は、英国自らがダイエットしたのであろう。いわば、英国の経済体制に関する美食家と健康食品派の葛藤の中で、何度もリバウンドを繰り返しながら、英国はスリムな綿織物を着用して、帝国の立て直しをはかった。
平田氏はイギリス史の国内史と帝国史研究が分離されたままの研究体制が続いていることを批判して、多民族国家・多人種国家としてのイギリス像と、帝国としてのイギリス像の、双方を結ぶために、在英黒人史をとりあげた。アメリカ独立戦争がきっかけとなって、イギリス側についたロイヤリストの一部の黒人が、ロンドンに送還され、「黒人貧民」として社会問題を引き起こしたため、その解決策として、海外植民地への再移民がとりあげられた。2)奴隷貿易廃止運動が1787年のロンドンの奴隷貿易廃止協会の設立から本格的に始まったとすると、1786年から本格的に活動を開始した黒人貧民救済委員会による黒人の救済活動は、奴隷貿易廃止運動とほぼ同時に始まったといえる。国内問題としての黒人貧民の救済活動と、国際的・帝国的問題としての奴隷貿易廃止運動は、もしかしたら、両者とも、アメリカの独立に関係していたのかもしれない。
奴隷貿易廃止派の位置づけに関して、学説史上、理解の仕方が3つあると、ハドソンは理解しているようである。3) ウィルクスのもとに集まった英国の中産階級に見られるような、過激派や非国教徒たちといった、イギリスの当時の文化からは反主流と位置づけられる人々によって、廃止が実現したと理解する立場。
国教会主流派は奴隷制を認めていたが、クエーカー教徒や国教会福音派などが廃止運動を指導したと理解する立場。
さまざまな社会革命の一環として、国教徒や保守派も廃止運動に参加したと理解する立場。そして、ハドソンはこれらをウィッグ史観の一例であると考え、社会変革は中央集団に対する周辺・非伝統的集団による攻撃であるとして、紋切り型で歴史をとらえているにすぎないと批判する。ハドソンはむしろ、廃止派の中心にいたエドマンド・バーク、ジェームズ・ラムゼイ、ウィリアム・ウィルバーフォース、ハナ・モア、そして、グランヴィル・シャープでさえ、過激派ではなく、保守派であり、国教徒であったと理解する。ハドソンは奴隷貿易廃止で勝利したのは、急進的な思想ではなく、専制からの「自由」といった保守的な思想であったとみる。奴隷貿易はまさに利益が増大していたときに廃止されたので、それは商業利害の実利主義(materialism)が理解するような経済的失敗に原因があったのではなく、思想(ideology)の力、すなわち、物質的利得や自愛心の牙城に対する、真実と正義の伝統的な概念の勝利であった。
グランヴィル・シャープの祖父はヨーク大主教になったほどの人物で、グランヴィルはその伝統を守っていたし、ウィルバーフォースがクラークソンに紹介されたのは、保守的なサミュエル・ジョンソンの古くからの友人であるベネット・ラングトンが主催する夕食会であったし、ジョンソン自身も奴隷制には反対した。4)ジョンソンに支援されたチェンバーズ(Sir Robert Chambers:オックスフォード大学の法学教授)や、サマセット事件の弁護士ハーグレーヴ(Francis Hargrave)たちは、奴隷制は英国法で許されていないと主張した。5)私たちは、この人物リストに、政界の大物である、時の首相ピットやフォックス(Charles James Fox: 1749−1806)たちも付け加えてもいいであろうが、社会の中枢にいた国王、貴族院議員、司法関係者の多くは奴隷貿易擁護派であったことを、忘れてはいけない。そのために、廃止運動が本格化した1787年から、1807年の奴隷貿易廃止法の制定に至るまでに、約20年の歳月を要し、ほとんど一世代の交代を待つしかなかった。さらに、奴隷制の廃止はもう一世代の月日を要した。ちなみに、ジョンソン博士の文学クラブにはエドマンド・バークや政治経済学者のアダム・スミスたちも集まった。6)
ここでは、18世紀の重商主義的発想が19世紀の自由主義的発想に転換する、一つの要因を探るため、いわば「白人博愛主義者」がどのような立場で廃止運動にかかわったのかを見ていく。7)
ウィルバーフォースたちもキリスト教的博愛主義者に分類されるであろうが、以下ではウィリアム・フォックスとエドマンド・バークをとりあげる。彼らも、人道主義・博愛主義的な思想から、奴隷貿易の廃止を求めたのは、間違いないであろう。その意味で、奴隷に加えられる非人間的な行為を悪いものと考えたであろうし、廃止に取り組む際の動機の点では、おそらく両人とも、ウィルバーフォースたちとそれほどの差はないであろう。
しかし、フォックスは成長してきた市場経済を足場として、廃止に向けた大衆運動を展開し、バークは議会の権威による上からの廃止、制度的改革の道を探った。8)市場を操作して、経済的圧力を加えると、奴隷貿易が廃止できるのか。それとも、議会が廃止の手法を定めたら、奴隷貿易が廃止できるのか。実際の廃止は、奴隷貿易廃止法の制定と、その後の海軍力による強制という形式で、バーク的手法によって実現された。両者の手法の実効性からいえば、特定の集団の意思でコントロールすることが難しい市場経済は、特定の集団の意思で制御できる法制度に、かなりな程度、依存するともいえる。
2. 奴隷貿易廃止論争の開始
英国議会で奴隷貿易に関心が向けられるのは、アメリカ革命(1776−1783)の頃である。ハル選出の、ロッキンガム派下院議員であり、ベンジャミン・フランクリンの親友であった、ハートレィ(David Hartley: 1732−1813)が、1776年、奴隷貿易は神の法(laws of God)と人間の権利(rights of men)に反しているという動議を提出した。この動議が議会史上初めての奴隷貿易への反対であった。1780年に書かれたと言われるバークのニグロ法典は、この議会での動議を支持して作成されたものとも見られている。9)ちなみに、1783年、ハートレィは英国政府の全権大使としてパリに赴き、フランクリンとともに和平条約を起草・締結した。10)
奴隷貿易廃止のための冊子による論争は英国国教会の聖職者であるラムゼイ師(James Ramsay: 1733−1789)の本の出版から始まったと言われる。ラムゼイはスコットランドの出身で、海軍軍艦での軍医としての経験や、20年近いセント・キッツでの聖職者としての生活の経験を下に、『英国砂糖植民地におけるアフリカ人奴隷の待遇と改宗』(Essay on the Treatment and Conversion of African Slaves in the British Sugar Colonies, 1784)で、奴隷の悲惨な生活をとりあげ、人種(race)による差別意識にいわれはないことを力説した。黒人が異なる人種であるとすることから、ヨーロッパ人は自尊心(pride)ゆえに、彼らを劣等人種(inferior race)であると、即座に結論付け、黒人が優秀な人の奴隷となるのは自然の成り行きであると考えた。ラムゼイはこのような奴隷制正当化論に対して、馬と牛も異なる種(species)であるが、その間に優秀な種が想定されることはなく、劣等な種が御主人の奴隷となることもないと主張する。11)ラムゼイはこの論争で、ひどい個人攻撃を受けて、1789年に、その精神的負担に耐えかねて他界したとも言われる。
ラムゼイの論点で、19世紀に開花する人種差別と同様の意識がすでに18世紀に批判の対象になっている点も興味深いが、ここでは、ラムゼイがその批判のために、「種」の違いで奴隷制を論じることの不合理性をついて、生物学的な理由は奴隷制を正当とする理由にはならないと指摘した点を重視したい。人道主義の基礎の一つには、人間の平等、すなわち、身分を問わず誰に対しても同じことを主張できるとする意識、あるいは、自他の転換の自由がある。自分の社会・共同体に「帰属」して、そこから離れることができない人々は、自分を他者の位置に置くことができないのに対して、インディオの立場からヨーロッパ人を見ることができた16世紀の人文主義者モンテーニュに見られるように、人道主義的発想は遅くとも16世紀の人文主義によって、他者の位置を自分のものとすることから、あるいは、他者の存在を認めることから始まる。ラス・カサス神父も同様な発想で、インディオ問題に取り組んだのは、有名である。ラムゼイの主張はこの思想史の延長線上にあると言ってもいいであろう。
当時、グランヴィル・シャープがとりあげたゾング号事件も、論争の開始に一役買った。12)
17人の船員で運航され、440人あまりの奴隷を積んだゾング号は、1781年9月6日、アフリカのサントメ島からジャマイカに向けて出航し、11月27日にジャマイカ付近に到着した。中間航路では、60人以上の奴隷と7人の白人船員が死亡した。しかし、ゾング号がジャマイカに実際に入港したのは、船長が誤認したという口実で、それよりひと月ほど後の、12月22日となった。その間、11月29日に54人、12月1日に42人、その後36人の、合計132人ほどの黒人が海に捨てられた。この事件が、1783年に、裁判の争点になったのは、病気や衰弱で長くはもたないという理由で、生きたまま海に捨てられた130人あまりの奴隷の損失を誰が保証するのか、という点であった。リヴァプールの船主は保険業者に保険金の支払いを求め、その要求が通った。水不足で病気が蔓延して、多数の奴隷が死ぬ前に、それ以上の損失を回避するために奴隷を捨てたにすぎないのだから、という理由である。船主たちは、黒人の廃棄による損失を、森林火災の延焼を防ぐために行われる木の伐採と同等に扱うように求めたといえる。判事のマンスフィールド卿(first Earl of Mansfield: William Murray: 1705−1793)は奴隷は馬と同じに判断されるとして、判断基準を明確にしたが、奴隷貿易廃止派は、人間である奴隷を捨てて、殺すこと自体に、怒りを感じた。13)この両者の正義感の違いは、奴隷が商品である前に、命ある人間と理解されるかどうかの差から来るものであろう。他者(黒人)に特定の社会的役割(動産奴隷)を押しつけて、そこから自分の利益を引き出す合法的利己主義が、この場合の正当化手法になるが、保険業者のように、同じ法意識のものからであっても、保険金詐欺にすぎないという判断も可能な事件であった。裁判で争われたのは、この点(保険金の支払いに値するかどうか)であったが、人道主義的意識が裁判を別の色彩に変えた。1780年代半ばという、アメリカの独立が達成され、フランス革命が準備されようとしていた時期に、奴隷貿易廃止運動に火がついた。
このような動向を受けて、1783年には、国王の側近(servants)がアフリカ会社の事業に参加するのを禁止する法案が提出された。しかし、同年にクエイカー教徒がノース卿に提出した請願は、人間性に富み(humane)、キリスト教的であるとして、その精神に対する評価は受けたが、イギリスが奴隷貿易を廃止しても、ヨーロッパ各国が介入するだけであるとして、その請願は認められなかった。
3. ウイリアム・フォックスの不買運動
18世紀には英国でも植民地でも、個々の人間の意思から独立した市場経済が人々の目の前に現れていた。少なくとも、社会の現実をそのように理解した人たちがいた。個々人ではあらがい難い市場経済を前提とすると、奴隷制の廃止も、市場経済に任せることになる。奴隷貿易や奴隷制に利益がなければ、廃止できるであろうという発想も、個々人の意思をこえた市場経済を見ている。奴隷制廃止論者の意思を奴隷主に強制するのではなく、市場経済の論理にしたがって、奴隷主に奴隷を解放させる方策は何か。市場経済は社会の隅々まで、無限に存在するものではなく、制度的な限界を持っている。その限界をどこに定めるかが、問われることになる。
法制度的に表現すれば、市場での自由な活動も、民事的商行為は許されるが、刑事的犯罪は許されない。商人の値切り交渉は許されても、海賊の強奪や窃盗は許されない。市場の自由はどこを限界とするのか。合法的行為(民事)と犯罪(刑事)との、2つの法領域の区別は、18世紀と現代では異なる。中世においては、非合法であった利子の取得は、現代では、刑事罰の対象となる法定利子率以下であれば、いかに高利に見えても、合法的である。犯罪と合法的行為の範囲は、社会によって異なる。近代以前の社会では、ときによって債務奴隷や刑罰奴隷が多数存在した。奴隷制が合法的であり、人々は非合法な行為を行ったとして奴隷化された。中国では受刑者の別名が奴隷であったと言ってもいいくらいである。14)
18世紀のイギリスでは、債務奴隷制はすでに否定されていたが、債務が弁済できないと、投獄された。別の表現法を採用すると、18世紀には「懲役」と奴隷に対する「強制労働」の区別が可能になっていた。奴隷制に否定的な意識がすでに存在していたと言える。
しかし、18世紀までは、奴隷制の合法性は疑いの余地がなかった。奴隷制に否定的な意識があっても、奴隷制は社会常識の一つであった。奴隷は奉公人(servant)の一種であるという意識の下では、奴隷の存在は当たり前であった。しかし、奴隷制を犯罪として、あるいは、犯罪なみに考えることができれば、奴隷制は民事から刑事の世界に移動する。人を奴隷として売買したり、使役する行為が犯罪となる。合法的であった奴隷制を最終的に非合法の世界に追放したのは、19世紀である。
市場経済でも、このようにして、特定の法制度に手を入れることができるのなら、まずは、奴隷貿易を非合法とすることから、始めてもいい。奴隷貿易を法制度的に廃止させれば、奴隷制自体に大きな影響を与えることになるであろう。しかし、奴隷貿易でさえ、法制度的な変更が難しいとなれば、市場経済の現状でできることといえば、何になるか。推論、あるいは、発想法は上記のものと異なるが、市場経済を前提として、奴隷制に打撃を与える方策を考える人も、18世紀に現れた。すなわち、奴隷の産物が市場で売れなければ、奴隷制も維持できない。クエイカー教徒の中には、現在、SRI(Social Responsibility Investment:社会的責任投資)を進めている人々がいるが、それと同じ発想かもしれない。
アメリカのクエイカーの一人、ジョン・ウールマンは奴隷の生産物を購入するのを拒否した。砂糖は必要であるが、奴隷が作った砂糖ではなく、カエデ糖のように、自由な農民が生産する糖を甘味料として代用することもできる。ウールマンは禁欲的な発想で、そのようにしたのかもしれない。15)彼の行為をまねる人々が現れたが、少なくとも、社会的な大きなうねりには、ならなかったようである。
イギリスでは、奴隷貿易廃止の議論が沸騰していたときに、かなり大掛かりな不買運動(abstension campaign)が展開した。不買運動の議論は1787年以来、廃止派の議論で出ていた。16)さらに、不買運動という形式自体はすでに1765年12月に、北アメリカ植民地が本国製品不買同盟「サンズ・オヴ・リバティ」を結成して、戦ったことからも知られるように、18世紀には政治的抵抗運動の一形式となっていたと考えられる。
1791年4月19日、奴隷貿易の完全で即座の廃止を求める下院でのウィルバーフォースの動議が163対88で否決された。これを受けて、同年、ウィリアム・フォックスが不買運動を進める冊子(『西インド産砂糖・ラム酒節制の効用に関する英国民への呼びかけ』)を出版した。フォックスの冊子はわずか4ヶ月で7000冊も出版されたと言われ、14〜15刷を重ねた。西インド産の砂糖とラム酒の不買運動は30万家族を巻き込んだと推計されている。17)フォックスの冊子の影響で活発化した、1791−92年の砂糖不買運動は、効果はあったが、運動としては失敗に終わったといわれている。しかし、その後も、奴隷制廃止を求める運動の中で、何度か社会運動として、あるいは、個人的な抗議行動の一つとして、繰り返されたものの一つである。
不買運動が展開できた背景に、商工業者の組織が関係していたのではないかと思われる。商工業者は臨時の組織ではなく、1770年代から80年代前半にかけて、通商委員会や商工会議所といった恒常的組織を作り、政治的な圧力をかけるようになっていた。「商工業者は選挙時の支持を梃に非協力的な政治家に圧力をかけることもあり、ここに、産業界の利害を擁護する議会外組織=圧力団体が出現したのである。」18)奴隷貿易廃止運動が本格化し始めた1785年に商工業者の各地の組織が統合され、「全英商工会議所」が結成された。奴隷貿易廃止運動は産業都市の地方組織を基礎にして、全国規模の圧力団体を結成して起こした運動の典型的な例の一つであったと言われている。19)
フォックスたちの不買運動とともに、奴隷貿易廃止の請願運動が功を制して、92年には、下院で、230対85で奴隷貿易の漸次的廃止が認められ、1796年1月1日が奴隷貿易廃止の日と決まった。しかし、この法案は上院で否決された。それ以降、フランス革命とハイチの奴隷反乱の影響で、奴隷貿易廃止派が急進的なジャコバン派であると疑惑の目で見られるようになり、廃止運動は一時的に衰頽した。
ウィリアム・フォックスの経歴はよくわからない。オールドフィールドはフォックスをクエイカー教徒の法律家であると記し、その急進的な不買運動はウィルバーフォースなどロンドン奴隷貿易廃止協会の会員を困惑させたのではないかと推測している。20)
フォックスは冊子の最後で、共同体主義的意識への嫌悪感をあらわにしている。「習慣で硬直化すると、心は罪の意識を持つのが困難である。慣習によって否定されると、私たちの行動は道義心の力に影響され難くなる。仲間の行為で是認されると、最悪の義務違反も良心の呵責なく実行できる」。21)おそらく、18世紀までの共同体主義的行動様式や思想が、ここでは反感の対象として、習慣(habit)、慣習(custom)、仲間(associates)という言葉で表現されている。国王や主人といった特定の個人の意思に左右されるのが常識であった18世紀以前の社会では、習慣を疑うことがなかった。個々人が帰属意識をもつ仲間組織の中で、他者に疎まれることなく行動するのが、自己の行為の正当性の根拠であった中世社会では、慣習が人々の行動規範となっていた。フォックスはそれらの心性に対して、個人主義の原則を適用するかのように、道義心(moral principle)、宗教的是認(sanctions of religion)、徳(virtue)、そして、人類に普遍的に適用されるものと想定された仁愛(humanity)を行動・思想の基準とすることを求めた。フォックスは大衆が自分で考え、自分で責任ある行動をすることを期待する。共同体主義者には欠けている責任感、すなわち、自己責任意識は、当然ながら、個人的責任に限定されることなく、社会的責任も自己責任であることが、フォックスによって鮮明に主張された。
フォックスは、奴隷制度、奴隷貿易が他者に対する抑圧の制度であり、残虐な制度であるという認識を前提として、いかにして、奴隷貿易を廃止するかを考える。必要であれば、東インドで生産された砂糖を購入することで、西インド産の砂糖を消費しないこと、すなわち、砂糖の購入、ではなく、奴隷によって生産された産物の購入を差し控えることで、奴隷制反対の意思表示をすることを、フォックスは求めた。
フォックスは主張する。もし私たちが奴隷制の産物を購入すると、私たち自身もその犯罪(crime)に荷担したことになる。消費者(consumer)が奴隷商、奴隷主、奴隷監督を雇っているのである。故買に従事すると、私たち自身が殺人・窃盗の従犯となるのと同じである。砂糖を1ポンド消費すると、人肉をおよそ2オンス食べたことになる。1週間に5ポンドの砂糖と相当量のラム酒を使用する家族であれば、21ヶ月、その消費を抑えると、1人の奴隷の命を助けたことになる。砂糖の消費が減少すれば、その価格は低下する。逆に、価格が上昇すると、奴隷の食料用の土地までサトウキビ畑に転換される。「奴隷の殺人、すなわち西インドの技術用語(technical language)では、奴隷の損失は、プランターにとって二次的な考慮の対象にしかならない」。プランターに奴隷の追加的購入をやめさせるだけでなく、現有の奴隷を殺させないことも重要である。奴隷貿易が廃止されても、外国領から砂糖が購入されるので、結果は同じであると主張する人々は、仁愛の命令(dictates of humanity)、国益(interest of the nation)を踏みにじっている。22)
ラス・カサス達、大航海時代にインディオの権利を守ろうとした宗教・法律家と同様、フォックスも奴隷が同じ国民として法の適用を受けることを主張する。奴隷も英国民であり、そのため、英国の普通法の適用を受け、その保護が与えられる、と。もちろん、英国法では、妻と同様、奴隷も動産(chattel)であるので、使用者はその労務に関する所有権を持っていて、服従させることができると解釈することも可能であるが、フォックスはこの点にはふれない。
奴隷はプランターの情け深い世話を受けて幸福であるという主張は、鞭打ちで皮膚や肉がはぎ取られるという証言からして、事実として認定できないし、英国の農民と奴隷を比較して論じるのは、非常識窮まりないと、フォックスは主張する。奴隷制で見られる主人と奴隷との人情物語は、おそらく、patronageで動いていた政界の人間関係の常識を極限まで押し進めたものにすぎず、保護・被保護関係自体が当時の常識であったのかもしれないが、フォックスは人情物語を否定する。非常識が常識となり、常識が非常識となる。
フォックスは、もしイギリス人が一人でも奴隷と同じ扱いを受けたら、国中で憤りが噴出するであろうと主張して、人々の共感を誘おうとする。23)自分が同じ扱いを受けたときに、どのように感じるか。この視角は人権概念の基礎の一つであり、市場で是認できるアダム・スミス的利己心や、家族内での思いやりの心が生まれるための最初の論点である。人間の間に差を設けないという点で、人権概念と市場主義はかなり重なり合う論点をもっている。しかし、奴隷を動産とみなし、自分は動産の所有者であり、自分自身が動産になることはありえないと思っている人たちには全く通じない論点である。彼らは奴隷制こそが社会秩序であり、それを否定する人権思想は社会秩序の破壊者であると考えて、奴隷貿易廃止運動が奴隷反乱を助長していると非難する。実際、国王を処刑したフランス革命の衝撃とともに、1793年以降、約10年間、新しい社会秩序創出の努力は休息状態に入った。
もし現代でも、奴隷貿易や奴隷制度が続いていて、それを維持する強力な利害関係者がいたとしたら、奴隷制を廃止するために、フォックスの論点以上のものを、私たちはどれほど提供できるであろうか。議会や裁判で負けたら、フォックスが提案した不買運動以上の手法をどれほど模索できるであろうか。このような問いかけが可能であるほどに、私たちは、まだウィリアム・フォックスと同じ時代、あるいは、フォックスが求めていた時代を生きていると言えるかもしれない。
4. エドマンド・バークのニグロ法典
エドマンド・バーク(Edmund Burke:1729−97)は暴力と圧政に抵抗した、保守政治家である。彼は完璧な秩序を美と考え、秩序を維持しながら、圧政からの自由を求めた。バークは1729年1月12日、アイルランドのダブリンで生まれた。父母はカトリックであったが、職業上、父は国教徒となっていた。バークは1741〜44年、ダブリン近郊のクエイカー派の学校で学び、ロンドンに上京したのち、ミドル・テンプルで法律を勉強した。1765年にウィッグの領袖であったロッキンガム侯(Marquis of Rockingham:1730−82)の私設秘書となり、同年、バッキンガムシャのウェンドーヴァーから選出されて、翌66年、37歳で政界入りを果たした。1794年に下院を去るまで、バークはジョージ3世の独裁政治への反対や、アイルランド・カトリック解放運動、東インド会社総督の弾劾、さらに、アメリカ植民地の独立やフランス革命に対する発言で、活発な政治活動を展開した。
バークは『現在の不満の原因を論ず』(1770)で、近代政党原理を書き上げ、貴族は民衆と対立するものではなく、民衆の判断力には信頼すべきものがあるとして、民主的な原理に基づいた貴族のあり方を説き、政界に圧力を加えようとする商工業者にとって、歓迎できる政治理論を展開した。現状維持を目的とし、伝統や慣習をかたくなに守る思想を保守主義と表現するなら、バークは保守主義者ではない。
バークは1771年に、政界に絶望して、農業経営に専念し、A.ヤングと文通するような中断もあった。1774年にはクエーカーの商人・製造業者の支持のもと、バークはブリストルから選出され、有権者に対して政見を発表するという慣行を確立した。ブリストル選出議員として、バークは奴隷貿易港の一つであるブリストルのためにも活躍し、アメリカ独立戦争中の1777〜79年にアフリカ貿易問題が生じたときには、アフリカ会社への加入の自由とロンドン商人による独占の排除を主張して、ブリストルの利害を擁護した。24)しかし、ブリストルの利害に反して、植民地貿易へのアイルランドの自由参加を認めたり、宗教的な寛容の要請からアイルランド・カトリックを擁護するバークが、選挙民であるブリストルとの関係を維持するのは困難であった。そのため、1780年の総選挙では、バークはブリストル選挙区を断念して、マルトンに去った。
バークはアフリカ会社に関してブリストルの立場を擁護する必要がなくなって、奴隷貿易廃止派となったのかもしれない。廃止派として議会で活躍したにもかかわらず、おそらく「秩序」には通常、矛盾した側面が含まれるため、バークの理論はのちの合衆国南部奴隷制の擁護者たちから、共和政の秩序を守るという視点から、その理論的支柱としても利用されたし、エリック・ウィリアムズも、ブリストルを擁護したバークを奴隷貿易擁護論者として位置づけているようである。25)
バークが『ニグロ法典草案』(1780年)を書いたのは、ブリストルを追われた頃であった26)。バークは生涯、被抑圧者に対する寛大さを要請したと言われる。バークは反乱者や男色者に対してさえ、寛大さを求めたし、インド人やアフリカ人の権利を擁護したのは、バークのそのような思いからであったと言われる。27)庇護民を見捨てないという視角から見ると、バークは矛盾した態度を示しているようにも見える。彼は賃金を補助して貧民を助けるという英国政府の政策に激しく抵抗し、貧民を見捨てた。その一方で、彼はアメリカ、インド、アイルランド、奴隷植民地に対する英国の政策を非難して、その住民を擁護した。しかし、黒人奴隷に関して、バークは段階的な解放を唱えた。彼は奴隷を訓練し、「自由」を享受するために要求される社会・経済的技量を学ばせ、財産を獲得させ、自活できるようにする方策を考えた。アメリカ、インド、アイルランドでも同様に、抑圧的な政策を押し付けるのではなく、自分で稼ぐ自由を与えるのがよい。政府の仕事は貧民に施しを与え、生計の資を与えることではない。28)貧民や被抑圧者に対する博愛的で保護者的な同情ではなく、自由・自律がバークの求めるものであった。
バークは1781年からチャールズ・ジェームズ・フォックスと行動を共にすることも多かった。1783年には、フォックスが提案したインド法案を支持して、バークは東インド会社の特権を攻撃する議会演説を行った。1785年2月にヘースティングスが帰国すると、インド現地のベンガル総督参事会で敵対したフランシスと、その盟友エドマンド・バークが中心となって、ヘースティングスに対する議会での弾劾裁判が始まった。この弾劾は1795年まで続き、政治的色彩が強い、ネイボッブの首領をねらい撃ちにした、一種の魔女狩り裁判ともいうべき政治ショーであったと言われる。1795年4月23日、29名の貴族が出席して、最終の審判が下され、25対4でヘースティングスは無罪放免となった。29)ほぼ、奴隷貿易反対運動が高揚した時期と重なる。
1790年には、フランス革命を支持するフォックスに対して、バークはイギリスの防衛力を強化することを要求し、フォックスとの仲が険悪となる。同年3月には、審査律廃止問題をめぐって、フォックスと対立した。1794年、バークは政界を引退した。95年には穀物不足に関する思索と詳論を著し、自由貿易論を展開した。人権宣言に象徴されるフランス革命の普遍的人間主義の原理に対抗して、西欧の保守主義は未知なるものへの不安と、慣れ親しんだものへの愛着を表明し、自国の伝統的な政治制度や文化、生活様式の道徳的価値を強調したと言われる。そして、バークは『フランス革命の省察』(1790年)で、大衆の政治的進出に対する貴族の不安を和らげる理論的根拠を提供したと言われる。しかし、バークのように、奴隷制度に反対した思想家に、人権意識がないことは、考えられない。
バークの『ニグロ法典草案』が執筆された1780年は、ロンドン奴隷貿易廃止協会が設立される1787年より7年前のことであるが、グランヴィル・シャープがヴァージニアの奴隷サマセットのために裁判闘争を行った1772年から8年後のことであった。バークは国務大臣のダンダス(Henry Dundas, first Vicount Melville: 1742−1811)への1792年4月9日付けの手紙で、自分が以前、奴隷貿易と奴隷制を規制し、最終的に抑止するための法案である『ニグロ法典草案』を執筆したと説明して、それを添付し、1780年に書いたものであるとして、その草案を手紙に添付した。
ダンダスは影響力の強さにより「スコットランドの王」と言われ、ピット政権のもと、海軍長官や東インド会社の委員として活躍した政治家である。30)彼は奴隷貿易の即座の廃止に反対し、西インドプランター寄りであると見られた。1792年、ウィルバーフォースの法案をバークの主張と同様に、「漸次的な」ものに修正したのが、ダンダスであった。ダンダスがバークの草案のコピーを求めた1792年は、ウィリアム・フォックスの冊子出版の翌年であり、砂糖の不買運動が展開していたときである。バークはダンダスの要望にこたえて、次のように認めた。
アフリカ交易(African Trade)それ自体は、段階的であっても、完全に廃止されるべきである。バークは弁解するかのように、草案を書いた当時は、奴隷貿易の廃止は空想的計画であるように思われていたので、その計画は商業が続くと前提してあると述べた。
バークはダンダスへの手紙で主張する。奴隷貿易は奴隷制と切り離せないので、奴隷の供給が止まれば、プランターは人口の増加に取り組むであろうといった主張は認め難い。そして、禁止して非合法化するのではなく、改善するために悪を許しておいたほうがいい。奴隷貿易を廃止しないと主張しているのではなく、漸次的に廃止すべきであり、その間に、現在、野蛮な取引となっているアフリカ沿岸の交易を徐々に評判のいいものにし、利益をもたらすものにしていく必要がある。バークはニグロの漸次的解放だけでなく、その文明化(civilization)も提案した。31)そして、バークは人間の状態を改善するときの健全な原則にしたがって、なんらかの規制ではなく、宗教の影響力の効果に信頼を置いた。
バークの草案と手紙では、その性格からして、人権を擁護した奴隷貿易廃止論者とは異なり、奴隷貿易や奴隷制がなぜ悪いのかは、あまり論じられていない。それは「悪」(evil)であると、前提されている。その前提が宗教・道徳にあることが、わずかに草案の序文でふれられているにすぎない。32)
「人間の交易、奴隷状態にある人間の抑留を停止すると同時に、長期間継続した慣行の突然の変化による混乱を最少に抑えるのは、真実の宗教と道徳の原理および政策の健全な原則に合致し、それにかなっている」(ニグロ法典草案序文)。
バークのニグロ法典は4章構成である。第1章はアフリカ交易用の船舶に対する本国での規制(7条)。第2章はアフリカ沿岸諸国の文明化や、そこでの奴隷購入・運搬に関する規制(18条)。第3章はニグロの乗船から西インド諸島での販売に関係する、いわゆる中間航路での規制(7条)。第4章は西インド諸島での奴隷の処遇と解放に関する規制(42条)。奴隷貿易に関係深い条項が含まれているのは、第1章と第3章であるが、両方あわせて14条しかないのに対して、第2章のアフリカの文明化の手法や第4章の西インド諸島での奴隷解放の方法に関して、かなりのページがさかれているのがわかる。奴隷貿易や奴隷制の廃止より、バークはむしろ、廃止された後の、アフリカの文明化や、奴隷の自立的経済主体化に関心を抱いていたのかもしれない。
ニグロ法典の序文に書き記された限りでは、バークが奴隷貿易を廃止しようとするのは、隷属(servitude)にともなう罪(inconveniences)と悪(evils)を少なくさせるためであり、そのように理解する基準となるのが、真実の宗教と道徳の原則であった。バークは隷属より自由を重んじる。他者の意思への従属・服従、裏返して言えば、中世的な忠誠心や権威主義・保護主義的態度より、バークは他者の意思からの自由を重んじたと見ることができるであろう。バークはこの自由主義・個人主義的価値観から奴隷貿易の廃止を望んだのかもしれない。33)
バークが奴隷貿易の即座の廃止ではなく、漸次的な廃止を求めるのは、急速な変化による弊害を恐れてのもので、奴隷貿易それ自体と砂糖交易や奴隷制度とが相互に依存していたので、それらを切り離して、一挙に廃止するのは不都合であると判断したからのようである。
まず第1章で、バークは本国で、奴隷船が登録されることを求める。船舶トン数と輸送できる奴隷の数に関して、バークは成人奴隷の場合、1人1.5トン、少年少女の場合、1人1トンを要求した。バークは黒人奴隷が人間らしく扱われるために、輸送の遅れや事故を見越した十分な量の、牛肉、魚、バター、ビスケット、米などの食料品の積み込みを求めた。そして、黒人の服、寝具などが揃っているかどうかを、出港前に検査する。製造者の名前が入っていない銃は輸出を禁止する。これはおそらく、1度打つと壊れてしまうような、粗悪な銃の輸出を禁止するための規定であろう。34)
このような事前検査を経て、出航した奴隷船は、第2章で、アフリカ沿岸の特定の交易地に寄港するのを義務づけることで、海軍の監視下に交易活動に従事することになる。そのためにバークが提案しているのは、一つは特定市場(mart, staple)の設置である。しかし、その他の土地で交易に従事した場合の罰金その他は記されていない。この市場を監督する主体として、バークはアフリカ会社、海軍、ロンドン主教を提案した。第14条で、35歳以上の奴隷、盗まれた奴隷、アラビア語やその他の文字が読める者、妊娠3ヶ月以上の女性、病人などを奴隷として販売するのを、バークは禁止しようとした。基本的には、野蛮で暴力的な取引ではなく、奴隷交易にそのようなものがあったとして、合法的で健全な取引になり、アフリカに教会、学校、病院を建設して、宗教や道徳を学ぶ機会を提供し、それによってアフリカを文明化する方法をバークは考えた。アフリカ人を徒弟として受け入れて、優秀なものはイギリスでさらに教育を受ける機会を提供することまでも、バークの提案には入っている。アフリカ人を文明化し、豊かにするために、宗教・秩序・道徳・徳が基本原則とされた。
アフリカの文明化というバークの発想は、18世紀末以後、各種の伝道協会が設立され、イギリスがアジア・アフリカをイギリス流に変えていく運動として実現されることになる。それは1787年のシエラレオネ計画、1791年のシエラレオネ会社設立、1799年のクラパム派による国教会伝道協会設立、そして、奴隷貿易が廃止された1808年以降の本格的なシエラレオネ植民によって、徐々に現実のものとなっていった。19世紀には、文明化とキリスト教化が不可分のものと理解されていたが、バークにあっては、アラビア語が読めることは文明を享受していると理解されていたようである。35)
健全な方式での奴隷購入の次に、第3章で、奴隷船は中間航路での監視も受ける。中間航路に出航するために交易許可証を必要とし、停船させて、十分な備えがあるかどうかも、海軍が監視できることになっている。黒人にも、奴隷船の船員にも、十分な食料はもとより、贈り物、音楽、飲料などが提供される。女奴隷との関係に対して罰金を科し、中間航路で30人に1人以下しか死亡させることがなければ、船長は報奨金をもらえることとして、バークは中間航路での死亡率低下のための動機付けも、法律によって与えようとした。
第4章の西インド諸島での規制でも、バークは奴隷販売を特定の港に限定し、監視の目がゆきとどくように配慮した。そして、奴隷保護官と聖職者を任命して、奴隷を登録して、監視の目を光らせ、さらに、奴隷に自由を与える基礎として、奴隷に家族をもたせることを考えた。第38条では、奴隷解放の基準として、30歳以上の奴隷であり、合法的婚姻で3人以上の子供を持ち、その善良性に関して聖職者の証明があり、宗教的義務を規則的に果たしている者という条件の下で、治安判事の査定額で奴隷は自分の自由を買い取ったり、市場価格の半額で、家族全員を解放できると規定した。
バークが黒人奴隷に、家族をもち、財産を獲得することを望んだ理由として、キャナバンはバークにとっての財産の重要性を指摘する。18世紀の地主は限嗣継承不動産設定(strict settlement)を実施して、財産の継承を第一義に考えた。土地財産を相続するというより、財産との関係で親の地位を世襲するかのようなこの法的処理は、財産を保持するのは個人ではなく、家族共同体であることを確認している。安定した家族と、家族が保有する財産。この秩序を維持するのが、バークにとっては、自由であった。財産が工業を刺激し、資本を生み、文明・文化の物質的な源泉となり、個人の独立・自尊心・自由の防壁となる。36)
バークはアイルランドが英国から差別待遇を受けることがないように考えたのと同様に、黒人も自由と財産の恩恵にあずかるべきであると考えたのかもしれない。バークの同様の視点は道徳経済学(moral economy)に対する態度でも貫かれている。古来から受け継がれてきた道徳観に基づいて、買い占めを非合法とし、刑法による処罰を規定していた法律のうち、1772年6月に、6つの制定法が廃止されたとき、廃止を決定した委員会を主導したのがバークであった。この時の道徳規範は自由経済思想である。アダム・スミスはバークと政治経済学に関する話題で意見交換したあと、「これらの話題で、意見交換なしに、私と全く同じ結論に達した唯一の人間である」とバークを評したと言われる。37)そして、買い占めに対する議論でも、バークは、貧民を保護する力が議会にあるという考え方それ自体を廃棄するように求めた。38)
バークにとって、政府が神の下で果たすべき義務は、国民生活を保護することではなく、自力で生活していく自由を保障することである。同じ視角で言えば、政府が配慮しないといけないのは、奴隷の生活を維持することではなく、奴隷が自活できることである。奴隷貿易が人道主義的見地から悪いと判断できるからではなく、自由と財産の秩序を守るため、奴隷も解放されなければならないと、バークは考えたのかもしれない。
5. まとめ
奴隷貿易・奴隷制度の廃止運動は人道主義やキリスト教的博愛主義によって展開されたと理解されることが多い。この理解自体に誤りはないであろうが、これらの社会・宗教思想それ自体は、経済思想・制度との関係が深い。ウィリアム・フォックスは特定の個人の意志では左右できない、自由市場を前提にして、不買運動という形式で奴隷貿易廃止運動を展開した。市場を守る、のではなく、市場の存在が前提されている。そして、その市場の秩序を求めるときに、フォックスは奴隷の商品性ではなく、奴隷の人間性に目を向けて、奴隷を殺すことは商品を破棄することではなく、人間を殺すことであるとして、自由市場ではすべての人間が平等に人間として扱われることを求めた。フォックスはさらに、習慣、慣習、仲間組織といった中世的・共同体的秩序を否定し、自己責任原則に目覚めた個人主義の意識を強調する。極言すれば、司法によって認められていることであっても、奴隷の血で穢された商品を購入するのは、故買に従事するのと同じであり、犯罪である。奴隷は商品・動産にすぎないことを前提として、奴隷を殺すことは馬を殺すことと同じであるとして、奴隷を殺しても刑事犯罪にならないと主張する商人や法律家に対抗して、フォックスはそれは人間を殺すことであるので、犯罪であると主張した。法曹界では、隷属=保護主義、あるいは、温情主義といった心情ではなく、「自由」を尊ぶという意識を持てる法律家だけが、奴隷制は英国法では認められないと考えたにすぎない。
奴隷の殺人は刑事犯罪とは見なされないと想定されていた時代に、フォックスはそれを殺人罪であると考え、個人主義・博愛主義の立場から奴隷貿易の廃止を画策した。人間である前に商品であるのか、商品である前に人間であるのか。法の前の平等意識がこの個人主義の内容となる。奴隷も主人も人間であるという立場では、損失回避のために奴隷を殺すのが犯罪でないとしたら、なんらかの理由を突きつけて、主人を殺すのも犯罪ではありえなくなる。逆に、主人の殺害が違法なら、奴隷の殺害も違法である。人間の間では、特定の個人に適用される刑法は身分・役割をこえて、別の個人にも平等・公平に適用される。専制君主からの自由といった17世紀的意識が、啓蒙思想を媒介として、民の世界まで降りてきて、身分や支配・隷属一般からの自由に昇華したものとみることもできるであろう。
バークの場合は、経済思想的には、アダム・スミスと同様に利己心と自由を前提とした政治経済学の立場であるが、法思想的には、自由を尊ぶ法律家の立場に近そうである。確かに、バークもクエーカー教徒や福音主義者に近い博愛的宗教的意識に裏打ちされては、いるのであろうが、隷属を認める身分秩序ではなく、すべての人が財産を築くことができるという意味での、所有権思想が根底にあったものと推量される。イギリス国内で守られた、専制からの自由を前提とした、18世紀的な財産、所有権の秩序は、共同体としての個々の家族によって構成される。奴隷にそのような家族を形成させることで、バークは奴隷にも財産の秩序に入ることを求めようとした。そのため、抑圧からのアイルランドの解放と同様に、奴隷も主人の抑圧から解放されなければならない。しかし、急激な変化は社会を不安定にするので、漸次的な奴隷貿易の廃止が、バークの意図するところであった。
通常、奴隷貿易に利益があったか、否か、だけが、奴隷貿易廃止の「経済的原因」として理解されることが多い。しかし、経済それ自体が一つの国内秩序、経済体制から、なりたっている。それはイングランド銀行が中央銀行として育たないと、19・20世紀的な経済体制を生み出すのが困難であるのと同様である。それまでの重商主義的経済体制が行き詰まっていたのなら、新たな秩序が必要となる。既得権を手放そうとしない人たちがいたのは、確かであるし、既得権をもたらす体制秩序から、まだ利益が得られるのであれば、彼らはその体制を維持しようとしたであろう。しかし、フォックスやバークに見られる、奴隷貿易廃止を求めた経済秩序の設計図は、慣習や隷属に基づく「奴隷」のいる社会ではなく、平等な個人と、機会均等で獲得できる財産、そして、自由市場経済が前提となっている社会を描いているようである。意図的であるか、無意識であるかはともかく、そして、両者の色合いは異なっているが、共同体や温情ではなく、他人によって全人格を所有されることのない自由な個人を前提とした社会秩序が求められているようである。彼らはいわば、新たな国際的経済秩序を形成するために、のちの人権概念に昇華される人道主義的色彩をもった、所有権を基礎とする個人主義的社会秩序を奴隷にまで適用した。ウィリアム・フォックスとエドマンド・バークに共通するのは、宗教的博愛主義というよりも、アダム・スミス的政治経済学が求める自由な市場経済であったと言っていいであろう。
奴隷貿易は経済的利益がなかったから廃止されたのか、博愛的宗教理念が勝利をおさめたので廃止されたのか、という設問は、政治経済学の成立や産業革命といった、当時の社会変動、歴史的変化を忘れたときにのみ、立てることができる視角にすぎない。
1) 小松春雄『イギリス政党史研究』中央大学出版部、1983年、pp.241−242。
2) 平田雅博「1780年代のロンドン黒人問題」(遅塚忠躬、松本彰、立石博高編著『フランス革命と近代ヨーロッパ』同文舘出版、1996年所収)、pp.42−43。
3) Nicholas Hudson, ’”Britons Never Will be Slaves”: National Myth, Conservatism, and the Beginnings of British Antislavery’, Eighteenth−Century Studies, 34−4, (2001), pp.570−571。
4) Ibid., p.559−561。
5) Ibid., p.569。サマセット事件に関しては、森建資『雇用関係の生成: イギリス労働政策史序説』木鐸社、1988年、pp.323−329。なお、サマセット事件の主席判事マンスフィールドは英国に滞在した奴隷の輸出を否定しただけであって、英国内で奴隷制を非合法化したのではないと自己弁護した。
6) Roy Porter, Enlightment: Britain and the Creation of the Modern World, Penguin Books, (2000), p.37.
7) 川北氏は奴隷解放の歴史が白人博愛主義者の成果として語られることが多かったが、黒人自身の運動にも重要な意味があったとして、エキアノとメアリ・シーコールをとりあげている。川北稔「18世紀の黒いイギリス人たち」(川北稔、指昭博(編)『周縁からのまなざし: もうひとつのイギリス近代』山川出版社、2000年所収)、p.26。
8) G.K.ルイスはキリスト教人道主義とは異なる奴隷制廃止思想として、アダム・スミスとエドマンド・バークを指摘する。ルイスによると、スミスは道徳的に悪だからではなく、経済的に不効用だから、奴隷制に反対し、バークはヘースティングス弾劾にみられるように、大英帝国を信託(trusteeship)の原則で経営するため、植民地人をイギリス人に対するのと同様な公平さと正義に従って、処遇すべきであると考えた。バークのこの原則が第2次世界大戦まで、英国の植民地統治の原則となった。おそらく、バークが奴隷解放を求めた原則も、東インド会社に対するのと同様であるという主張であろう。Gordon K. Lewis, Main Currents in Caribbean Thought: The Historical Evolution of Caribbean Society in Its Ideological Aspects, 1492−1900, U.Nebraska Pr., (2004), pp.207−208。
9) Francis Canavan, The Political Economy of Edmund Burke : the Role of Property in His Thought, Fordham University Press, New York, 1995, p.31。
10) DNB(Dictionary of National Biography on CD−ROM, Oxford U.Pr., 1998)。
11) James Ramsay, Essay on the Treatment and Conversion of African Slaves in the British Sugar Colonies, (1784), in Michael Craton, James Walvin and David Wright (eds.), Slavery Abolition and Emancipation: Black Slaves and the British Empire: A Thematic Documentary, Longman, (1976), p.244.なお、この本では抄録しか載せられていない。ラムゼイ師のこの冊子は、Peter J. Kitson (ed.), Slavery, Abolition and Emancipation: Writings in the British Romantic Period, vol.2 The Abolition Debate, Pickering & Chatto, (1999)、にも第2〜4節部分が載せられている。
12) Elizabeth Donnan, Documents Illustrative of the History of the Slave Trade to America: Vol.II the Etighteenth Century, New York, Octagon Books, (1969, 1st ed. 1931), p.liv。
13) Hudson, op.cit., p.569によると、マンスフィールド卿はジャコバイトである。ハドソンによると、奴隷制の存続を求める思想は自由の名で商業的私的利害を主張するシティやリヴァプール、ブリストルの商人が抱いた、英国法にとっては外来の思想にすぎないと、シャープは考えた。シャープは独立を求めたアメリカの発想にも、同じ理由で反対した。シャープによると、アメリカ人は「私的利害をこえて、自由を本当の意味で考えることはないし、専制や圧政を嫌う気持ちはほとんどなく、気まぐれに興奮し、個人的利益が要求するときには、ためらうことなく言い訳をする」。Granville Sharp, A Representation of the Injustice and Dangerous Tendency of Tolerating Slavery..., London 1769, p.82, cited in Hudson, ibid., p.569. いわば、貪欲で奔放な実利主義に基づく奴隷制擁護論と、圧政からの自由主義に基づく正当な奴隷制反対論、という対立図式であり、ハドソンによると後者がジャコバイトとなる。そして、1772年までにマンスフィールド卿が確立した英国法の立場から、シャープは奴隷制に反対した、と。
14) 中国古代の奴隷制に関して、神野清一『卑賤観の系譜』吉川弘文館、1997年、参照。
15) Roger Anstey, The Atlantic Slave Trade and British Abolition 1760−1810, Macmillan Press, (1975), pp.205−206。
16) Kitson, op.cit, p.153。
17) Ibid. John Oldfield (ed.), The British Transatlantic Slave Trade, vol.3 The Abolitionist Struggle: Opponents of the Slave Trade, Pickering & Chatto, (2003), p.xvi。
18) 今井宏編『イギリス史 2 近世』山川出版社、1990年、p.352。
19) 同上書、pp.352−353。
20) Oldfield, op.cit., p.321。なお、1785年以降、日曜学校の創始に務めたウィリアム・フォックス(William Fox: 1736−1826)がこの冊子の著者であるかどうかは定かでないが、人名事典(DNB)では、その友人・支持者として、グランヴィル・シャープやウィルバーフォースの名があがっている。
21) William Fox, ’An Address to the People of Great Britain, on the Utility of Refraining from the Use of West India Sugar and Rum’ (1791), in Oldfield, ibid., p.334.なお、フォックスの冊子はKitson, op.cit. にも載っている。
22) Ibid., pp.325−328.
23) Ibid., pp.330−333.
24) 鶴田正治『イギリス政党成立史研究』亜紀書房、1977年、pp.266−267。バークの伝記的な内容は、その他、半沢孝麿、三辺博之、竹原良文、安世舟著『保守と伝統の政治思想:近代政治思想史(3)』有斐閣新書、1978年や、小松、前掲書、などを参考にしている。
25) Larry E. Tise, Proslavery: A history of the defense of slavery in America, 1701−1840, Univ. of Georgia Pr., (1987), p.355 ; Eric Williams, Capitalism and Slavery (with a New Introduction by Colin A. Palmer), Univ. of North Carolina Pr., (1994; 1st ed., 1944), p.41。なお、1788年5月9日、大衆が関心を寄せているという理由で、ウィリアム・ピットが下院で奴隷貿易廃止を議題にのせたとき、フォックスとバークは廃止に賛成の演説をした。Judith Jennings, The Business of Abolishing the British Slave Trade 1783−1807, Frank Cass, 1997, p.45。
26) Edmund Burke, ’Sketch of a Negro Code’ (1792), in Francis Canavan (ed.), Select Works of Edmund Burke: Miscellaneous Writings, Liberty Fund, 1999; also in Peter J. Kitson (ed.), op.cit。
27) Frans De Bruyn, ’Anti−semitism, Millenarianism, and Radical Dissent in Edmund Burke’s Reflections on the Revolution in France’, Eighteenth−Century Studies, vol.34−4, (2001), p.579。
28) Canavan, Miscellaneous Writings, pp.xiv−xv。
29) 秋田茂「ネイボッブ:その虚像と実像」(川北・指『周縁』所収)、pp.181−183。キャナヴァンによると、バークのヘースティングス批判に見られる態度から、バークが富を賞賛したのは確かであるが、利益を求める心に行きすぎがあってはならず、富の追求は合法的でなければならないとバークは考えた。1794年4月11日、下院の演説でバークは言う。「もし徳より財産を好むかと聞かれたら、その答えは否。名誉より? 否。芸術・文学より? 否。財産はすべてがたつ土台としてのみ尊敬する。すなわち、財産は魂のほとばしりであり、ほかのものの守護神である」。バークは独占や保護ではなく、資本と労働の流動性を重視し、1662年の定住法に関して、バークは1774年に、「定住と排除の法律は奴隷制の基本であり、...当然ながら、自分が支持・維持できる場所で望むままに住むことが許されないなら、私は奴隷となる」と主張した。Canavan, Political Economy, pp.27, 29, 118。
30) ちなみに、チャールズ・ウィリアム・フォックスが1784年にウェストミンスターから選出されたとき、選挙戦の困難が予想されたため、フォックスはフォックス派の有力議員であるサー・トマス・ダンダスが支配する、スコットランド最北端のテイン・バラズの選挙区でも立候補して、下院議員として選出された。青木康『議員が選挙区を選ぶ:18世紀イギリスの議会政治』山川出版社、1997年、pp.30−33。
31) Burke, op.cit., pp.255−258。なお、ウィルバーフォースたちもアフリカの文明化はその目標の中に入れている。1789年5月の議会演説でも、ウィルバーフォースは奴隷貿易がアフリカの文明化に貢献できると思うかと問いかけ、イギリスの議会人ならアフリカの文明化を考えるはずであると主張した。A.Aspinall and E.Anthony Smith (eds.), English Historical Documents : vol.VIII 1783−1832, Routledge, (1996; 1st ed. 1959), p.795。ちなみに、この演説は現在、インターネット上の数カ所で、全文を参照できるほど、有名である。
32) バークは宗教的には広教派(Latitudinarian)であったと言われる。彼はアリストテレスや中世の神学者に由来する慎慮の徳(moral virtue of prudence)の原理が自然道徳法(natural moral law)と両立するものであり、それを神の法であるとみなしたと、キャナヴァンは主張する。そのために、バークはヘースティングスやフランス革命を批判し、奴隷貿易の漸次的廃止を望んだとして、キャナヴァンはニグロ法典草案の序文を引用する。Fransis Canavan, ’Edmund Burke: Christian Statesman’, in Reflections: The Newsletter of the Edmund Burke Society, vl.4, no.1 (2003), (from http://www.kirkcenter.org/burke/reflections/ref−4−1−feature.html; 2004年9月参照)。
33) Burke, op.cit., p.260。啓蒙の時代に個人の幸福が説かれ、他者の意思に依存しないことが、道徳的な自由moral freedomとなった。『両インド史』を書いたアベ・レナルやそれに協力したディドロにとって、理性よりも、意思の自由こそが人間と野獣を区別するものであった。その意味で、意思の自由が欠如する奴隷の存在は認め難いものであった。レナルは奴隷を解放する方策として、バークと同様に、一挙に奴隷に自由を与えると、怠惰で罪深い生活を送ることになると考えて、そうならないように、奴隷を道徳的に教育し、正しい方法で生活の資を稼ぐことができるようになる方策を考えたと言われる。David Brion Davis, The Problem of Slavery in Western Culture, Cornell University Press, 1966, pp.412, 417−420。
34) 1788年のドルベン法(提案者のSir William Dolbenの名にちなむ)では、奴隷船の船長はアフリカ貿易の船長、船医、航海士としての経験を積むことが規定された。Donnan, op.cit., pp.582−589。ローリーによると、1788年、ダルツェル(Archibald Dalzel)が枢密院の委員会に医学的な知識を提出し、食料や水、壊血病などに効く薬、塩水を真水に変える蒸留機などをを積みことを提案した。ドルベン法では、船医が日誌を記すことが規定され、201トンまでは3トンにつき5人(0.6トン/人)と規定された。すなわち、201トンの船舶では335人まで奴隷を積み込める。リヴァプールからは0.5トン/人以上の規定になると、貿易が破滅すると訴えられていた。バークの提案と比較すると、ドルベン法はかぎりなくリヴァプールの要求に近い。ドルベン法では、201トンをこえると1トン/人となる。罰金は超過1人につき30ポンドであった。この法では、火災や海難、海賊、奴隷反乱、敵船による拿捕など以外、奴隷の保険を違法とした。おそらくこの規定はゾング号事件のように、奴隷を海上に投げ捨てるのを禁止したのと同じ効果を持つ規定であろうと思われるが、この点は曖昧である。1799年にトン数ではなくデッキの広さで計算されるようになり、奴隷貿易廃止前には1トン/人となった。James A. Rawley, The Trans−Atlantic Slave Trade, WW.Norton, 1981, pp.292−293, 304。)
35) シエラレオネやニジェール川流域での伝道活動に関しては、並河葉子「シエラレオネの黒人宣教師」(指昭博編『「イギリス」であること』刀水書房、1999年所収)。ここでは、19世紀半ばに国教会伝道協会の指導者ヘンリ・ヴェンが「文明化」の名を借りた現地のイギリス化に慎重であり、1870年代後半からヨーロッパ人宣教師が伝道活動の主導権を握るようになると、社会習慣のイギリス化ではなく、厳格なキリスト教の信仰生活がアフリカ人に求められるようになったのに対して、シエラレオネ出身の黒人伝道師クラウザたちがイギリス化を推進したことが明らかにされている。
36) Canavan, Political Economy, pp.31−32, 46。
37) Douglas Hay, ’Moral Economy, Political Economy and Law’ in Adrian Randall and Andrew Charlesworth (eds.), Moral Economy and Popuilar Protest: Crowds, Conflict and Authority, Macmillan Press, (2000), pp.98−99。スミスの言葉はRobert BissetのLige of Edmund Burke(1800年)から採用されたものであり、これが信頼できる情報であるかどうかはわからないと、キャナヴァンは言う。Canavan, Political Economy, pp.116−117。なお、1772年のサマセット事件の判決で有名なマンスフィールド判事も、食料品の買い占めに関して、バークやスミスの定義と同様に考えて、道徳経済学ではなく、政治経済学(political economy)の立場で判決していた。Hay, ibid., p.98。ヘイはバークたちに代表される動きがあったにもかかわらず、当時まだ、多くの判事やジェントルマンが道徳経済学に従っていた点を明らかにした。
38) Hay, ibid., p.103。バークが規制を無意味、野蛮、不正であるとして、政府の介入が危険であると論じた点を、ポーターも確認している。Porter, op.cit., p.396。なお、政府による通商、物価、賃金の統制を攻撃したバークとモラル・エコノミーの関連に関して、Michihiro Otonashi, ’Moral Economy versus Political Economy’, 『経済学論纂』(中央大学)、42−6, 2002年、p.189。ただし、バークは首相のピットとともに、既存の重商主義政策の政策を評価していたとする説もある。Kenneth Morgan, ’Mercantilism and the British empire, 1688−1815’, in Donald Winch and P. K. O’Brien (eds.), The Political Economy of British Historical Experience, 1688−1914, Oxford U. Pr., (2002), p.166。
参考文献
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