各国に設立された奴隷貿易の廃止を求める協会が、おそらく初めて、全国的な規模で、大衆を巻き込んで、宣伝活動を行った結果、ようやく議会が動き始めたという過程を通って、奴隷貿易の廃止が実現された。これらの運動はいわば草の根民主主義の最初の例である。もちろん、議会への請願運動それ自体はそれ以前から存在していて、特定の地域・村落や団体が議会に法律の制定を求めて、陳情活動をするのは、常識的な行為であった。それ以前の活動と異なるのは、自分の利益とは直接の関係がない事柄に関して、全国的規模で、請願運動が展開した点である。草の根民主主義は自己の直接的な利益を求めるものではない事柄において成立する。
各国の奴隷廃止協会はまず奴隷貿易の廃止を求めて、そのあとで、奴隷制度の廃止の実現に向けて活動した。
2.1 ペンシルヴェニア廃止協会
奴隷制に反対する組織のうちで、もっとも早い例は、1775年に設立されたペンシルヴェニア廃止協会(Pennsylvania Abolition Society)というクエイカーの組織である。
2.2 ロンドン廃止委員会
クエイカーを中心として、ロンドン廃止委員会(London Abolition Committee)は1787年に設立された。
2.3 黒人の友協会
フランスでは、1788年に黒人の友協会(Société des Amis des Noirs)が設立された。
2.4 ウィリアム・ウィルバーフォース(1759−1833: William Wilberforce)
ウィルバーフォースは国教会の福音派に属し、クラパム派の指導者の一人であった。彼は14歳のときに、新聞への投稿で奴隷貿易を非難した。1780年に下院議員になったあと、精力的に奴隷貿易の廃止を求める活動を進めた。
2.5 英国での奴隷貿易廃止法案成立
1788年、下院はドルベン法(Dolben Act)を制定し、奴隷船における奴隷の境遇の改善を実現した。ドルベン法は輸送する奴隷の数を、船舶トン数3トンあたり、奴隷5人以下に制限するという法律である。この法にしたがうと、例えば、150トンの船なら、250人まで奴隷(成人男性)を輸送できる。
1792年には下院で、奴隷貿易廃止法案が通過したが、上院で否決された。英国はフランスとの戦争に忙殺され、1804年まで、廃止運動は停滞した。
奴隷貿易廃止法は1807年に通過した。
2.6 米国での奴隷貿易廃止
1787、88年に、ロードアイランド、コネチカット、ニューヨーク、マサチューセッツ、ペンシルヴェニアなどの州が奴隷の輸入を禁止した。
1808年、米国の議会(Congress)は奴隷貿易の輸入を禁止した。これは、その20年前に記載された憲法の条項に応じるものであった。
2.7 1772年サマセット事件
1769年、チャールズ・ステュアート(Charles Stuart)がヴァージニアから奴隷のサマセット(James Somerset)を連れて、イングランドにやってきた。
1771年、サマセットが逃げたが、主人に捕まえられ、ジャマイカ行きの船に乗せられた。クラークソンはサマセットを守るため、奴隷制は英国の法では違法であると主張した。
主席判事マンスフィールド卿(Chief Justice William Mansfield)は、英国法では奴隷・サマセットの輸出は認められていないという判決を下した。マンスフィールド卿は英国法(common law)で奴隷制は認められていないとは主張しなかったが、新聞や廃止派はそう解釈した。
実際、1833年まで、英国の植民地では奴隷制は廃止されなかった。
英国法では、奴隷は動産(chattle)であり、労務の提供を求められた。ちなみに、妻も動産であった。