5.1 19世紀の奴隷貿易量
奴隷貿易は1807年に英国で、1808年に合衆国で廃止されたが、それ以降も奴隷貿易は続いた。奴隷貿易廃止後、西インド諸島の割合は急減し、1820年代を最後に、合衆国にもほぼ輸入されなくなったが、ブラジルとキューバは19世紀に輸入量を増大させた。そして、19世紀には、およそ300万人、すなわち、大西洋奴隷貿易総量の3分の1近くの黒人が、奴隷貿易廃止以降に取り引きされた。
奴隷貿易最盛期の1760〜90年代には、年平均7万人をこえる奴隷がアフリカから輸出されていたが、1800〜1840年代までは年平均4〜6万人ほどになり、1850年代に急減し、1860年代後半には年平均2000人をわるほどになった。
ポルトガル領ブラジルへの輸出が多かったコンゴ、アンゴラ地域からの奴隷輸出量は、19世紀には最盛期の半分以下になったが、19世紀も引き続いて、最大の輸出地域であった。それに対して、西アフリカ各地は輸出量が減少し、18世紀に64万人を送った黄金海岸は19世紀には手を引いた。逆に、18世紀にはほとんど輸出が見られなかった東アフリカは19世紀には年間数千人規模の奴隷輸出量となった。
合衆国もフランスと同様、奴隷貿易の廃止に積極的ではなかったが、1820年に、合衆国議会は奴隷貿易を海賊と同等とみなすと宣言した。しかし、1820年代には全体で、最盛期に匹敵する、年6万人の奴隷が輸入された。
奴隷船の資本や交易品は英国や合衆国で調達されたが、奴隷船の80〜90%はブラジルやキューバなどの船であった。
5.2 英国海軍の拿捕活動
1819年、英国は陣頭にたって、西アフリカ海岸で、非合法の奴隷船の拿捕をはじめた。19世紀に英国海軍が拿捕して、解放した奴隷は16万人ほどであった。これは奴隷船1600隻ほどで、総量の約5%とはいえ、かなり抑制効果はあったと見られている。
イギリス海軍の取締の目を逃れるため、奴隷は夜、積み込まれた。奴隷貿易廃止艦隊は拿捕した船舶・積荷を没収し、起訴した。
取締という危険が増大したので、密貿易による奴隷貿易は合法時代より多くの利益を得ることができた。合法貿易時代には、運送費が奴隷販売価格の15%であったが、非合法時代にはそれが50%近くまで上昇した。
廃止艦隊は非合法船の5分の1ほどを捕獲したが、船上に奴隷を乗せていたのは16分の1にすぎなかった。船上に奴隷がいないと、拿捕できなかった。
奴隷船の船長は海賊として起訴されたが、拿捕された船の所有者・資金提供者が起訴されることはなかった。
1842年に、合衆国も、アメリカ国旗を利用するキューバ船を拿捕するために、西アフリカに艦隊を派遣した。
5.3 没収奴隷
英国海軍が没収した奴隷は、元の地域に戻すと、再び奴隷化される危険があったので、アフリカの別の海岸に集められた。英国領シエラレオネのフリータウン、アメリカ人が運営していたリベリアのモンロビア、フランス領ガボンのリーブルヴィルである。
シエラレオネに連れていかれた解放奴隷のサムエル・クラウザ(Samuel Crowther)はのちにナイジェリアでの伝道に従事し、西アフリカでの最初の英国国教会主教となった。
5.4 奴隷制度廃止協会
1823年に、ロンドンで奴隷制廃止委員会(London Anti−Slavery Committee)が結成された。