奴隷の反乱

奴隷の運命を甘受できる人間は少ない。奴隷の中には反乱や逃亡によって、自由の身をえたものもいた。

3.1 中間航路

アフリカで奴隷を積み込んで、アメリカに運ぶ航路は中間航路(middle passage)とよばれる。西欧から出発した奴隷船はアフリカを経由して、アメリカに奴隷を運び、そして、西欧に戻る。この三角形の中間にあるので、中間航路とよばれる。

中間航路でも、奴隷は反乱した。船の乗っ取りに成功しても、船の操縦の仕方を十分には知らなかったので、この反乱はほとんど無謀なものであったが、それでも反乱を起こす奴隷たちがいた。

3.2 森林・山岳地帯

逃亡奴隷が森林・山岳地帯に一つの共同体を作る活動は16世紀から見られる。通常、その逃亡共同体はマルーン村(maroon societies)とよばれる。

マルーン村はスペイン領植民地ではパレンケ(palenques)、ブラジルではキロンボ(quilombos)とよばれた。アメリカ生まれのクレオール(Creoles)より、新着の奴隷であるボザル(bozals)のほうが多く逃亡した。

16世紀はじめにブラジルの内陸に形成されたパルマレス(Palmares)というマルーン村は、逃亡共同体の初期の例である。パルマレスは1695年まで続いた。

オランダ領スリナム植民地でもマルーン村が樹立された。デュカ(Djuka)とサラマカ(Saramaka)とよばれた、これらの村は1760年代に、オランダ当局と平和条約を締結した。以後の逃亡者の返還に応じることで、村は独立を認められた。1860年代に奴隷制が廃止されてときも、これらの村はまだ存続していた。

3.3 組織的奴隷反乱

ブラジルのバイアでは、1807〜35年に、9回、奴隷反乱が生じた。

1762−63年に、今日のガイアナにあったバービス(Berbice)でも、オランダの支配からほぼ脱することができた。

1823年に、デメララの近くでも広範な反乱が生じた。

合衆国では1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の反乱が生じた。

1800年のガブリエル・プロッサ(Gavriel Prosser)や1822年のデンマーク・ヴェジ(Denmark Vesey)も奴隷制を震撼させた。

3.4 ハイチの独立

サン・ドマング島(ヒスパニオラ島)のフランス領で、1792年、大規模な奴隷反乱が生じた。指導者トゥーサン・ルヴェルチュール(Toussaint L’Ouverture: 1744頃−1803)は奴隷の自由を勝ち取ったが、彼自身は捕らえられて、1803年、フランスで獄死した。

トゥーサンの継承者、ジャン・ジャック・デサリーヌ(Jean−Jacques Dessalines: 1744頃−1806)が1804年に、この地域をハイチと名付け、独立の共和国を建国した。