題名: 英国奴隷貿易廃止の物語
英文題名: a brief story of the British abolition of slave trade
氏名: 児島秀樹(Kojima Hideki)
要旨:
本稿は大西洋奴隷貿易の廃止に関して、大学レベルの「西洋史」や「西洋経済史」でおさえておきたい事柄を確認した。
ポルトガル領ブラジル植民地では16世紀半ばから1850年の奴隷貿易の廃止まで、砂糖やコーヒーなどの生産のために黒人奴隷を輸入した。オランダはブラジルを占領して、ブラジルの方式を西インド諸島に移植した。17世紀半ばから19世紀初めまで英仏の西インド諸島植民地で大規模なサトウキビ・プランテーションが展開した。
1750年頃から奴隷貿易廃止運動が芽を吹いた。その芽は1770〜80年代にアメリカで大きくなり、イギリスに伝播した。イギリスは独立戦争で奴隷を離反させるために、北アメリカ植民地の奴隷解放を企んだ。パリ条約ではこれが静かな問題になった。この頃から、奴隷貿易廃止運動が活発化していった。
キーワード: 西洋経済史、18世紀イギリス史、大西洋奴隷貿易廃止、アメリカ独立戦争
1. はじめに
大西洋奴隷貿易に関しては、日本語でも多くの文献が入手可能になり、さまざまな角度から論じられるようになってきた。(1)しかし、アフリカ史に関係した領域や奴隷制廃止後の19世紀の制度問題など、多くの研究領域が不十分なまま残されている。ここでは、そのような専門的な領域に入る前に、大西洋奴隷貿易が廃止される時期の物語的な話をとりあげる。大西洋奴隷貿易の廃止に関する入門的な話を取り上げることで、何が問題になっているのかを、再確認してみたい。(2)
大西洋奴隷貿易廃止の物語には、日本ではあまり知られていないものも多い。本稿はイギリス大西洋奴隷貿易廃止に関する大学レベルの教科書を執筆すれば、どのような内容が取り上げられるべきかを考えながら、書かれている。(3)それによって、大西洋奴隷貿易がかかえる問題領域の大きさも見えてくるであろう。
ちなみに、大西洋奴隷貿易に関係した映画として、スピルバーグ監督の「アミスタッド」がもっとも有名であったであろう。これに新たにもう一作品付け加わるかもしれない。遅くとも2006年1月までに、インターネット上(日本語)では、マイケル・アプテッド(Michael Apted)監督による映画「アメージング・グレース」が制作されているという情報が流れた。この映画は1807年2月23日の奴隷貿易廃止法案の可決から数えて、ちょうど200年目にあたる2007年2月23日に劇場公開される予定であるという。(4)Amazing Graceの歌詞は奴隷貿易廃止の年に他界した牧師、ジョン・ニュートン(John Newton; 1725-07-24〜1807-12-21)が作詞したものであると言われている。その題名にもかかわらず、映画の主役はジョン・ニュートンではなく、奴隷制度廃止の年に他界したウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce; 1759-08-24〜1833-07-29)であるらしい。34歳年上のニュートンは牧師として、ウィルバーフォースに大きな影響を与えたと言われている。
2. 大西洋奴隷貿易の廃止運動の開幕以前
大西洋奴隷貿易はいわゆる三角貿易の形をとっている。綿織物、銃、ビーズなどの西欧の工業製品はブラック・アフリカに運ばれて、そこで奴隷と交換された。黒人奴隷は大西洋をこえて輸送された。アフリカからアメリカへの、この航路は中間航路とよばれる。黒人奴隷や白人船員の中に、中間航路で命を落とす者が多くいた。アメリカに無事たどり着いた黒人奴隷は西インド諸島(カリブ海の島々)やブラジルなどで、植民地物産の生産にたずさわり、それが西欧に輸入された。
商品の総体的な動きが三角貿易の形をとったとしても、個々の船舶が3辺で利益を得ていたわけではない。第3辺目である西インド諸島から本国への帰国の際に、イギリス、特にリヴァプールの奴隷船は砂糖を輸入することが少なく、その多くはバラストで帰国したと言われる。積み荷があまりなかったので、船の重心を安定させるために石を積んだのである。砂糖を輸入したのはロンドンの砂糖商であり、彼らはイギリスと西インド諸島の往復交易に従事した。
16〜19世紀に大西洋奴隷貿易に参加した主要な国は、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダである。ポルトガルは当初、ブラジルから赤色染料木であるブラジルウッド(蘇芳の近縁種)やオウムなどの商品を輸入していた。しかし、1530年代からブラジルは先住民の労働力を利用した砂糖植民地として開発されるようになり、16世紀半ばまでに、サトウキビ栽培に黒人奴隷が投入されるようになった。
ポルトガルは西アフリカのサントメ島を経由する形で、セネガンビアやコンゴ・アンゴラなどの住民を奴隷としてブラジルに輸出した。16世紀の間に5万人ほど、17世紀の100年間に約56万人、18・19世紀には年に1万人をこえる規模で黒人奴隷が輸入され、最終的に400万人ほどの黒人がブラジルに輸入されたと推計されている。黒人奴隷はブラジルへの輸入がもっとも多く、その次がイギリス領西インド諸島であった。
高校の世界史教科書の中には、本格的にサトウキビの栽培をはじめたのはオランダ人であると書いているものもあるが、この書き方は誤解をうむ。古代ローマ時代から砂糖は西洋に輸入されていたが、生産はされなかった。サトウキビの原産地はニューギニアではないかと言われている。サトウキビは熱帯で栽培されるイネ科の作物であり、冷涼な温帯地域で生産される砂糖大根(ビート、甜菜)とは、生産地域が異なる。
サトウキビ栽培は西洋では、十字軍時代にイタリア商人達がイスラム教徒から学んだ。イタリア商人はクレタ島やシチリア島などの地中海の島々で砂糖の大規模な生産を開始した。そののち、大航海時代の到来とともにサトウキビ栽培の拠点はマデイラ諸島やカナリア諸島などのいわゆる大西洋諸島に移り、さらに、ポルトガルがブラジルに移植した。
オランダ(西インド会社)は1620年代にブラジルを占領して、ポルトガルから砂糖プランテーションを奪った。その後、1640年にスペインによる併合(1580-1640)の呪縛から解かれたポルトガルが、ふたたびブラジルに力を注ぐようになり、1654年にブラジルからオランダ人を追放した。追放されたオランダ人が西インド諸島に砂糖革命をもたらしたという、有力な説はある。
ブラジルではその後、金鉱の発見やコーヒー生産の本格化など、紆余曲折を経ながらであるが、奴隷制それ自体は続いたため、黒人奴隷の流入がとまることはなかった。奴隷はもっと欲しかったが、イギリスの圧力に屈するかのように、1850年にブラジルへの奴隷貿易が非合法にされ、1888年に奴隷制が廃止された。そのときまで、ポルトガルはもっとも長期に奴隷貿易にかかわった。ただし、通常、大西洋奴隷貿易は三角貿易であると描かれているが、ブラジルへの奴隷貿易の場合、ポルトガルを経由することなく、アフリカとブラジルの2極を結ぶ貿易も多かった。
1792年にデンマークは奴隷貿易を1803年までに廃止すると決定した。しかし、デンマークの廃止の影響は少なかった。イギリスは1672年に王立アフリカ会社を設立して以降、本格的に奴隷貿易に参入し、1807年に奴隷貿易を廃止するまで、多数の黒人奴隷を西インド諸島に輸出した。その後、イギリスは他国にもしばしば奴隷貿易の廃止をよびかけ、西アフリカ沿岸では他国の奴隷船を拿捕するほどに、その影響は大きかった。海軍を常時、西アフリカに派遣するという帝国主義的な動きは後の歴史にも大きな影響を与えた。
日本ではアメリカ合衆国南部の綿花栽培のための奴隷制が有名である。イギリス領北アメリカ植民地では18世紀までにタバコや米のための奴隷制が展開していた。綿花栽培のための奴隷制は、西欧で奴隷貿易と奴隷制の廃止が求められるようになった時期に、急激に拡大した。その意味で、合衆国で19世紀に拡大した綿花栽培のための奴隷制は、欧米史上、非常に特異な存在となっている。
18世紀までは、近代の奴隷制は、綿花のためではなく、砂糖を生産するための奴隷制であった。もちろん、サトウキビの他に、ブラジルや西インド諸島では、綿花、コーヒー、カカオ、インディゴなどもプランテーションで栽培されていた。サトウキビは、1803年に甜菜糖工場がドイツに作られて、甜菜から砂糖が生産されるようになるまで、ほとんど唯一の糖料作物であった。
1793年に綿繰機を発明したホイットニー(Eli Whitney; 1765-1825)は1798年に合衆国政府によるマスケット銃生産の受注に成功して、その生産に互換性部品の仕組みを導入しようとした。それによって、銃が戦場で壊れても、その修理は技術者に頼るのではなく、軍人自身が部品を取り替えるだけで済むようになる。さらに、銃の生産工場では、優秀な技師が設計した生産方法に従って働く単純な労働者が、熟練労働者にとってかわれるようになる。この方式のため、ホイットニーは近代の大量生産技術の一つである互換性部品を開発した技術者の一人としても名高い。しかし、彼を有名にしたのは綿繰機であり、この機械のおかげで、内陸部の栽培に適した綿花の処理が容易になった。合衆国南部の奴隷制拡大はこの機械のおかげであったとさえ言うことができるほど、綿繰機の発明・普及は綿花の生産に大きな役割を果たした。
イギリスと同じ1807年にアメリカの連邦議会も奴隷貿易禁止法を制定した。この時点で主に念頭におかれたのは、砂糖、コーヒー、カカオ、タバコ、米などの嗜好品や食料の生産であった。1780年代から始まるイギリス産業革命では、製鉄業とともに、綿工業が工業発展のリーディング・セクターとなった。奴隷貿易の廃止運動と産業革命は同時並行的に進んだ。そのイギリスの綿工業に綿織物の原材料としての綿花を供給するため、合衆国南部のプランテーションは拡大した。ナポレオン戦争中に、サウスカロライナ、ジョージア、戦後は、アラバマ、ミシシッピなどの諸州に奴隷制が拡大した。
北アメリカ植民地の独立運動の中心地であったフィラデルフィアはクエーカーの町であると言われる。クエーカー教徒のウィリアム・ペンが1681年にチャールズ2世から土地を与えられて、ペンシルヴェニア(ペンの森)が創設された。フィラデルフィアは現在でもペンシルヴェニアの最大の都市である。フィラデルフィアで、アメリカ独立のための大陸会議が開催されたのは、高校の世界史教科書でもかならず取り上げられる。1800年にアメリカ合衆国の首都が正式にワシントンに移されるまで、フィラデルフィアが臨時に合衆国の首都であった。
アメリカとイギリスに9万人ほどいたクエーカー教徒は、1750年代から同宗派の人たちに対して、奴隷を解放するように求め始めた。平和主義者のクエーカーは現在でも興味深い社会活動を推進しているが、啓蒙と自由の18世紀に、彼らの最大の社会貢献が奴隷貿易廃止であったかもしれない。
北アメリカ植民地で独立戦争が始まった1775年には、奴隷制廃止のためのクエーカーの組織として、ペンシルヴェニア廃止協会が設立された。そして、独立が認められたのちの1787、88年には、ロードアイランド、コネチカット、ニューヨーク、マサチューセッツ、ペンシルヴェニアなどの諸州で、奴隷の輸入が禁止された。イギリスのクエーカーはアメリカのこの動きに影響されたと言ってもいいかもしれない。アメリカは近代の人権思想に結実する、いわば良き道徳の理想を追い求める国であった。しかし、アメリカは南部奴隷制の拡大にみられるように、そのような運動をものともせず、他人にたかるための悪しき道徳の理想を現実化する国でもあった。
3. 奴隷貿易の廃止へ: 18世紀半ばのリヴァプール
英国は大ざっぱなところ、1670年代から1807年まで平均して毎年1万人以上の黒人奴隷を主に西インド諸島に輸出した。17世紀には王立アフリカ会社(Royal African Company)に入会したロンドン商人がその主役をつとめた。この組織は「会社」と訳されているが、いわゆる「カンパニー」制度にすぎないので、中世のギルド制を思い描いたほうがその実態に近い。東インド会社と同じく、王立アフリカ会社もギルド的な制規会社(regulated company)ではなく、合本会社(joint stock company)にはなっているが、要塞の維持や奴隷の獲得で協力して、資金を出し合っていただけにすぎず、会社のために行う一部の商行為の他は、実際の取り引きは、個々の商人が自分の勘定で行っていたものと推測される。若干、誇張して言えば、現代では談合やカルテルとして敵視されるものが、この時期には、ふつうの組織であった。それがカンパニーと呼ばれていた。とはいえ、会社と個人商人との関係はまだ研究を深めるべき問題が多く残っている。
王立アフリカ会社が有したアフリカ交易の独占権は1698年に10%の関税支払いで個人商人に開放された。その独占権は1712年には全廃された。以降18世紀半ばまで、ロンドン商人に代わって、ブリストル商人が奴隷貿易に大きな役割を果たした。しかし、18世紀半ばからは、ブリストルに代わり、産業革命の中心地であるマンチェスターを後背地に抱えるリヴァプールが、奴隷貿易を担うことになった。イギリスで奴隷貿易廃止運動が活発化した頃は、奴隷貿易は主にリヴァプール商人が行っていた。(5)
イギリス商人は西アフリカのシエラレオネからナイジェリアの海岸地帯で奴隷を獲得することが多かった。奴隷は戦争捕虜、誘拐、債務奴隷、犯罪奴隷(現代なら懲役囚)などの形で獲得され、多くは徐々に転売されながら、数人ずつ内陸部から海岸地帯に運ばれてきた。そのため海岸に奴隷を留置しておく場所が必要となった。当時、西アフリカの国々に奴隷がいたのは間違いないが、コンゴでは、「奴隷」も「子供」もンレケと呼ばれていたと言われるように、西アフリカの奴隷制は西インド諸島でヨーロッパ人が鞭打って働かせた苛酷な労働奴隷制とは、その実態が異なっていた。日本人であれば、戦前の家政婦や妻妾、丁稚や次三男を連想したほうが、このアフリカの奴隷を正しく思い描けるかもしれない。彼らアフリカの奴隷は、内陸部で奴隷になっている時と異なり、ヨーロッパ人に売られたときには、世界が終わったように感じた。生きる望み、人生の可能性が奪われた。
アメージング・グレースの作詞で有名なジョン・ニュートンは1736年に、11歳で、船長であった父の船に乗り込んだ。1742年までに6回の航海で、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの港をまわった。1743年に、海軍の徴発隊に捕まって、軍艦ホーイクに連行された。
反抗的なジョン・ニュートンの行動は海軍にとって、好ましいものではなかった。海軍はジョンの希望をいれて、マデイラで奴隷船に乗り移るのを許可した。彼はシエラレオネに行き、奴隷交易商に仕えた。奴隷のような生活をしていたジョンは、1748年、ジョンの父に頼まれてジョンを探しに来た商船に救出された。しかし、その帰路、嵐に見舞われて、ジョンは宗教的に覚醒した。1748年3月10日(新暦21日)であった。
その後、父の友人で、リヴァプール在住のマネスティ(Joseph Manesty)が奴隷船の一つをジョン・ニュートンに託すことにした。ジョンはシエラレオネなどで奴隷を仕入れ、アンティグアやセント・キッツで奴隷を販売した。ジョンは100トンあまりのリヴァプール船籍の船の船長として、1750〜54年に3回、奴隷貿易に従事した。
1755〜60年に、ジョンはマネスティの勧めで、リヴァプールの潮流鑑定士の職に就いた。ウェスリー(John Wesley; 1703-06-17〜1791-03-02)たちとの出会いを通して、ジョンは徐々に宗教界に入っていった。1763年、ダートマス卿という福音派(evangelical)の貴族に出会って、翌年、その後ろ盾でバッキンガムシャのオウルニ(Olney)の司祭助手となった。
ニュートンは友人とともに、1779年に「オウルニ賛美歌」を出版した。しかし、その年、暴徒の取り締まりに失敗して、1780年1月、ニュートンはロンドンに移住することにした。ロンドンには福音派の聖職者で、牧師として生計をたてている者が、ニュートン以外には、ロメイン(William Romaine;1714〜1795)しかいなかった。
シエラレオネ川の河口で、現フリータウンから30kmほど上流にあるバンス島は、ニュートンも奴隷貿易で訪れたことがある。ここは外洋を航海する船が到達できる地点にあったので、その立地条件の良さから、王立アフリカ会社は創設時にすでにここに商館を築いたとさえいわれる。しかし、海賊やポルトガルの襲撃などもあり、王立アフリカ会社は城砦を手放し、1748年、ロンドンの商社が運営することになった。その筆頭経営者のスコットランド人オズワルド(Richard Oswald; 1705〜1784-11-06)は奴隷貿易で50万ポンドの財産をえたといわれる。(6)ちなみに、1万ポンドの年収があれば、貴族として、ふさわしいと思われていた時代である。
アメリカ独立戦争中に、英国軍は独立革命軍に対処するため黒人奴隷に自由を約束して、英国軍への参加を促した。300人ほどの黒人が英国軍に登録され、ジョージ・ワシントン、パトリック・ヘンリー、ジェームズ・マディソンたちの奴隷も主人を裏切り、英国軍に参加したといわれる。1782年末にパリで和平条約の交渉が始まったとき、奴隷解放の約束が問題になった。英国からはバンス島の所有者リチャード・オズワルドが参加した。彼は7年戦争(1756-63)中、軍隊の後方支援活動で活躍して、政界に名前が知られるようになっていた。アメリカからはその友人で商売仲間であったヘンリー・ローレンス(Henry Laurens)が交渉に参加した。ローレンスはサウスカロライナの米プランターであり、アメリカ最大の奴隷商の一人であった。ローレンスはジョン・ニュートンに奴隷船を託したジョセフ・マネスティとも取引があった。
ローレンスは和平交渉が終わる頃に参加した。会議の当事者が疲れ果てたところで登場して、ちょっとした提案をするのは交渉術の一つである。気心の知れた相手がいるのも手伝って、ローレンスの主張は条約に盛り込まれた。英国軍は「ニグロやその他のアメリカの財産」を奪ってはいけない。条約の調印にあたった者は、元奴隷が英国軍から所有者のもとに戻ると思っていた。ジョージ・ワシントンは自分の奴隷を連れ戻せると思って、奴隷を確保しておくようにと、ニューヨークに手紙を書いた。
ところが、1783年5月6日、英国軍の司令官カールトン(Sir Guy Carleton)がニューヨークでワシントンにあった。カールトンはワシントンに言った。奴隷に対する解放の約束を守り、それによって国家の名誉を守るため、すでに奴隷は英国船でニューヨークを発ったと。和平交渉の結果に反するこの行為に驚いたワシントンは奴隷の返還を求めたが、カールトンの態度は変わらなかった。1826年、英国は市場価格の半額で奴隷の償いをした。(7)
4. 奴隷貿易と自由: グランヴィル・シャープと1770年代
グランヴィル・シャープ(Granville Sharp; 旧暦1735-11-10〜1813-07-06)はヨーク大主教ジョン・シャープの孫である。大主教はイギリス国教会の最上位の職位である。ヨークの他に、ロンドンに近いカンタベリにも大主教がおかれていた。
1765年、彼はジョナサン・ストロング(Jonathan Strong)という黒人奴隷と知り合った。その主人はライル(David Lisle)という名のバルバドスの法律家であった。バルバドス島はイギリス領西インド諸島では最も早く、17世紀半ばまでに砂糖植民地化された島であった。
ライルはまだ16・17歳であったジョナサンをひどく打ちのめして、通りに棄てた。グランヴィルは兄ウィリアムの病院の玄関で、瀕死の状態のジョナサンに出会った。ジョナサンに治療を施した後、シャープは近くの薬局の仕事を彼に紹介した。
2年後の1767年に、ジョナサンが薬剤師の下で使い走りとして働いていたとき、ライルが路上で彼を見つけ、逃亡奴隷として捕まえ、西インド諸島に売り飛ばそうとした。それを知ったシャープは、ジョナサンを釈放して、脅迫暴行(assault and battery)の罪でライルを訴えた。弁護士のライルは即座に応酬した。ライルは、他人の財産の不法な留置の罪で、シャープを訴えた。シャープは事務弁護士に助言を求めたが、法廷闘争では負けると助言された。マンスフィールド卿(Willaim Murray; 1705-03-02〜1793-03-20)もブラックストーン(Sir William Blackstone; 1723-07-13〜1780-02-14)も同じ判断を示した。この時点で、法曹界と法学会の頂点にいる人たちの助けが得られないどころか、もしかしたら、彼らとさえ戦う必要があることに、シャープは目覚めたかもしれない。
32歳のグランヴィル・シャープは、その後、イングランドにおける個人の自由に関する法を勉強し、黒人の擁護者になった。この事件ののち、ジョナサンは病気で倒れて、25歳で死んだ。
シャープは1772年にサマセット事件に勝利した。黒人奴隷のサマセット(James Somerset)は所有者のチャールズ・ステュアート(Charles Stewart)とイングランドに来ていたが、逃亡した。しかし、発見されて、ジャマイカ送りにされかかった。事件はマンスフィールド卿の王座裁判所に係争された。マンスフィールドは英国の商法の父といわれる。彼は財産権と自由権の衝突を避けたかった。(8)マンスフィールドの判断の裏にある思想の意味を読み解く必要がある。財産と自由はなぜ車の両輪でなければならないのか。
サマセット側の弁護士は主張した。奴隷がイングランドに足を踏み入れたら自由になると。ステュアート側はサマセット1人を解放したら、数千人の奴隷も同時に解放されることになり、その評価額である80万ポンドの価値が失われると論じて、財産の損失に警鐘を鳴らした。
子供のいなかったマンスフィールドは甥の娘の黒人女性を家族の一員として迎え入れていた。遺言では、家族の一員としてのその黒人女性に500ポンドの遺産と100ポンドの年金を与えた。マンスフィールド伯爵はスコットランドの貴族の4男で、その家系はジャコバイトだった。彼はジョージ1世逝去に関するラテン語詩で賞をとって、この競争で負けたチャタム伯ウィリアム・ピットの生涯のライバルとなった人物である。
グランヴィル・シャープは奴隷解放のための法廷闘争に尽力しただけでなく、将軍オウグルソープ(James Edward Oglethorpe; 1696-12-22〜1785-07-01)の求めに応じて、海軍の強制徴発に反対する運動にも参加した。(9)オウグルソープはエキアノとシャープを引き合わせたこともある。(10)彼は英国の貧民問題を解決する一つの方策として、1732年に20人の仲間とともにジョージア植民地建設の特許状をえた人物である。この発想法はもしかしたら、シエラレオネ植民につながるのかもしれない。海兵の強制徴発の廃止を求める運動と奴隷貿易廃止を求める運動は下層民を人間として認めようとする点で同じである。
18世紀に海軍の将兵の補充は志願兵制であったが、戦時には、海軍は強制徴発を行った。強制徴発の権限は国王大権に属していて、海軍本部がその権限を行使した。建て前は志願であったが、1812年の英米戦争中に、志願者は3割ほどで、徴発者が半数ほどいたと言われる。(11)
18・19世紀に労働者が工場主に雇われるときと同様に、多くの船員は周旋業者を通じて、船主に雇われた。周旋業者は酒場や簡易宿泊所の経営者であり、船員に金を使い果たさせて、商船に売り込むことも商売とした。客の好みの酒や食べ物を与えて、借金をかかえさせ、船に連れ込んだ。船員となった者は船長から賃金の前渡しを受けて、酒場の借金を清算した。
17世紀末イギリスは本格的にカリブの海賊の取締を行うようになった。そのためヘンリー・モーガン(Henry Morgan; 1635?〜1688)のように、さっさと海賊を辞めて、ジャマイカの副総督になった者もいた。16世紀後半にエリザベス女王は私掠免許状を過剰に発行した。私掠免許状は個人的な実力=武力による損害賠償請求を海軍法廷で認めたものである。裁判所が発行した免許状であるので、当然、国内では合法的活動の一環であり、非合法の海賊と区別されたが、スペインやポルトガルのように、その攻撃を受けた者にとっては、商人の私掠船は犯罪者の海賊船と異なることはなかった。17世紀までは海上商業に武力が必要であった。
海軍は兵士の処罰を軽減しようとしていたが、鞭打ち刑は19世紀中頃まで多くの軍艦で日常行為であった。海軍にはまるで海賊と同様の処罰があった。ヤードの端に吊るして、海中に落とす海中突入刑、並んだ全乗組員の列の間を裸で走らせて、全員で鞭打つ並び打ち刑などである。正確には、当時の支配層の行動を犯罪者はまねるものであると表現したほうがいいであろう。
命令に従わなかった者を鞭打ったのは海軍だけではない。19世紀半ばまでは、イギリスの子供たちは躾のために鞭打たれた。このような時代であったので、奴隷を鞭打つことに罪悪感を抱くものはほとんどいなかった。
しかし、しだいに海軍の艦長の横暴や残忍さに対する批判が高まり、艦長が裁判にかけられる例も出てきた。そのため、徐々に鞭打ちが減少し、最後の鞭打ちは1880年に実施されたと言われる。鞭打ちの減少に伴って、海軍への帰属意識・集団意識を強めるため、1748年から、海軍は士官に制服を支給するようになった。最終的に、いわゆるセーラー服という名で知られる制服が乗組員全員に支給されるようになったのは、1857年である。
シャープは1776年に5冊以上の奴隷貿易廃止に関する冊子を刊行した。1779年には、多くの主教と文通を始めて、奴隷制廃止のための協会の創設を進言した。シャープにとっては予想外であったかもしれないが、1787年にクエーカーを中心として、それが誕生した。シャープはその議長となった。
シャープはしばしばチャタム伯の子、ウィリアム・ピット(William Pitt; 1759-05-28〜1806-01-23)とも交流し、フランス革命中にはラ・ファイエットやブリッソといった奴隷制反対論者とも文通した。(12)
シャープはアメリカが独立を達成すると、主教職創設のためにフランクリンやアダムズなどとの文通を始め、1787年にニューヨークとペンシルヴェニアで主教の叙階式を行うことが可能になった。その功績でシャープはハーバード大学などから名誉法律博士号(LL.D)を授与された。
英国で解放奴隷が増えてくると、1783年に、すでに、シャープはアフリカ海岸への解放奴隷の入植計画をたてるようになった。シャープはシエラレオネに狙いをつけ、1786年にはその構想を小冊子にまとめた。シエラレオネに「自由の土地」を建設しようとするものである。1787年4月8日に最初の自由奴隷がシエラレオネに到着した。シエラレオネは奴隷貿易の重要な基地の一つであったので、当初は、数少ない入植者が現地の人たちに妨害され、定住地の建設に失敗した。1792年には、ノヴァスコシアからの解放奴隷の移民、約千人がシエラレオネに上陸した。彼らはアメリカ独立戦争の際に、解放を約束され、イギリス側について闘った元奴隷たちであるが、イギリスの敗北で自由も土地も与えられることなく、困窮した生活を送っていた。(13)
5. あとがき
大西洋奴隷貿易の廃止の物語を完成させるには、少なくともあと、ゾング号事件とエキアノ、クラークソン、ウィルバーフォースをおさえておく必要がある。紙数の関係で、これは次回に回したい。
1) 大西洋奴隷貿易を全般的に扱ったものとして、池本幸三・布留川正博・下山晃『近代世界と奴隷制』人文書院、1995年がある。最近の研究では、平田雅博『内なる帝国・内なる他者』晃洋書房、2004年を参照。平田の本ではイギリス国内の黒人問題が扱われている。その他、クラークソンの活動が中心であるが、ザバヌー・ギッフォード(徳島達朗監訳)『アボリショニズムの社会史』梓出版社、1999年のように、イギリスの奴隷貿易廃止に至る過程が80ページほどで簡潔にまとめられている本も出ている。圀府寺彩「奴隷制末期におけるジャマイカ社会の変化: 職能的・人種的秩序の形成と「自由人化」」(『農業史研究』39)2005年、のように新たな分野の研究も始まっている。
2) 大西洋奴隷貿易が始まって、その廃止に至るまでの入門的な概観は、経済史に関連した話が中心であるが、拙論「大西洋奴隷貿易」(経欧史学会編『世界史にみる工業化の展開』学文社、1999年)で扱った。ちなみに、フレデリック・ドルーシュ総合編集(木村尚三郎監修/花上克己訳)『ヨーロッパの歴史 欧州共通教科書 第2版』東京書籍、1998年、では、大西洋奴隷貿易の話が第6章第4節の「植民地帝国の形成」に若干載せられているだけにすぎないし、ラス・カサスは載っていても、ウィルバーフォースたちの名前は出てこない。日本の高校生がよく利用する某出版社の世界史の用語集では、「ウィルバー=フォース(Wilber Force)」と誤記されている。大西洋奴隷貿易の廃止の研究は進んでいるのに、多くの人の教養的知識にはなっていない、ということかもしれない。
3) 本稿では、Adam Hochschild, "Bury the Chains: The British Struggle to Abolish Slavery", Pan Books, (2006)を主に参考にする。2005年に初版が出たホークシルドのこの本は、ジャーナリズムの教師ならではの書き方で、奴隷貿易廃止の過程が取り上げられている。実際、奴隷貿易廃止運動の中で、ジャーナリズムが始まったと言ってもいいほどに、廃止派は大衆運動を展開した。以下、注には記さないが、本稿でとりあげる多くの事実は断りのない限り、この本の中に書かれているか、参考文献にあげた事典類に載っている。
4) http://en.wikipedia.org/wiki/William_Wilberforce(2007年2月3日参照)。
5) David Eltis et.al., "The Trans-Atlantic Slave Trade: A Database on CD-ROM", Cambridge U.P., (1999)を利用して、もっと正確に書くと、1740〜60年と独立戦争期間をのぞき、ロンドンは18世紀に毎年6000人±3000人ほどの黒人を植民地に輸入した。ときには年間1万人をこえた。ブリストルは1725〜41年がピークで、この期間には年間1万人をこえることが多く、最高1.7万人台を記録した。リヴァプールによる年間輸入奴隷数は1720年代までの2000人以下の水準から始まり、独立戦争中をのぞき、1800年までほぼ一直線に奴隷輸入が拡大した。1750年代には1万人を、60年代には2万人を、80年代には3万人を、廃止運動が一時停滞した1790年代末には4万人をこえた。
6) Hochschild, op.cit., pp.25-27.オズワルドに関しては、ホークシルドの叙述を信用しておく。エルティスたちのCD-ROMには、奴隷船の所有者がリチャード・オズワルドである船は16隻載っている。
7) Ibid., pp.98-101. Joseph A. Opala, "The Gullah: Rice, Slavery, and the Sierra Leone-American Connection," at http://www.yale.edu/glc/gullah/03.htm.
8) Ibid., p.49. サマセット事件に関してはアメリカの議会図書館(http://www.loc.gov/index.html)の"Slaves and the Courts 1740-1860" (http://memory.loc.gov/ammem/sthtml/sthome.html)を参照。ここで100冊以上の電子文献が利用できる。電子文献が各ページの画像とともに、SGMLやテキスト形式でも提供されていて、史料公開の一つの大原則を厳格に守っている点で、その公開手法も評価できる。ここでマンスフィールド卿関連の文書の他に、『ジャマイカ史』(1774年)で有名なEdward Long(1734-08-23〜1813-03-13)の文書や、サマセット側の弁護士であるFrancis Hargrave(1741?〜1821-08-16)の文書が公開されている。
9) 海軍兵士の徴発の実態に関しては、川北稔『民衆の大英帝国--近世イギリス社会とアメリカ移民』岩波書店、1990年。
10) Hochschild, op.cit., p.52.
11) 篠原陽一『帆船の社会史: イギリス船員の証言 』高文堂出版社、1983年、pp.115、136、141、150、190など。
12) イギリスの廃止派の影響を受けて、ブリッソが提唱して、1788年2月19日に設立されたフランスの「黒人の友の会」は、浜忠雄『カリブからの問い』岩波書店、2003年、pp.89f.参照。
13) 並河葉子「シエラレオネの黒人宣教師」(指昭博編『「イギリス」であること: アイデンティティ探求の歴史』刀水書房、1999年所収)、pp.121-123。
参考文献
Adam Hochschild, "Bury the Chains: The British Struggle to Abolish Slavery", Pan Books, (2006).
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ザバヌー・ギッフォード(徳島達朗監訳)『アボリショニズムの社会史』梓出版社、1999年。
川北稔『民衆の大英帝国--近世イギリス社会とアメリカ移民』岩波書店、1990年。
圀府寺彩「奴隷制末期におけるジャマイカ社会の変化: 職能的・人種的秩序の形成と「自由人化」」(『農業史研究』39)2005年。
指昭博編『「イギリス」であること: アイデンティティ探求の歴史』刀水書房、1999年。
篠原陽一『帆船の社会史: イギリス船員の証言 』高文堂出版社、1983年。
フレデリック・ドルーシュ総合編集(木村尚三郎監修/花上克己訳)『ヨーロッパの歴史 欧州共通教科書 第2版』東京書籍、1998年。
服部伸六『黒人売買の歴史』たいまつ社、1977年。
浜忠雄『カリブからの問い: ハイチ革命と近代社会』岩波書店、2003年。
平田雅博『内なる帝国・内なる他者』晃洋書房、2004年。
事典類
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David Eltis et.al., "The Trans-Atlantic Slave Trade: A Database on CD-ROM", Cambridge U.P., (1999).
Paul Finkelman and Joseph C. Miller (ed.), "Macmillan Encyclopedia of World Slavery", 2 vols., Macmillan, (1998).
Cynthia Clark Northrup (ed.), "Encyclopedia of World Trade: From Ancient Times to the Present", 4 vols., Sharpe, (2005).