6 奴隷制から契約労働へ

6.1 奴隷制の廃止

19世紀に合衆国、キューバ、ブラジルが主に奴隷を利用した。キューバとブラジルでは、合衆国と異なり、奴隷解放が盛んに行われて、1880年代までに、自由な有色人が奴隷より多くなっていた。

<キューバ>

キューバはイギリスが占領していた1760年代に、ジャマイカと同様な砂糖栽培を開始した。19世紀初期に、英領ジャマイカと仏領サン・ドマングに代わって、キューバがカリブ海で最大の砂糖植民地となった。スペイン政府は英国の圧力に屈して、1817年、31年に奴隷貿易の廃止を受け入れたが、効果はなかった。

キューバでは、砂糖生産に利用された奴隷が、全奴隷の3分の1、都市の奴隷が4分の1、コーヒー生産奴隷が4分の1、そして、残りが農村でさまざまな農作業に従事した。

1860年代以降、契約労働者の輸入とともに、奴隷貿易は衰頽し、キューバに最後の奴隷が輸入されたのは、1867年である。1870年に、キューバでは奴隷解放のための法律が制定され、60歳以上の奴隷と子供は解放されることになった。1880年に奴隷解放法が制定されたが、キューバで最終的に奴隷制が廃止されたのは、1886年である。

<ブラジル>

ブラジルは1530年の植民開始から、砂糖植民地としてポルトガル海上帝国の重要な一翼を担うようになった。ブラジル中東部、バイアやペルナンブコで発展した砂糖生産は18世紀に衰頽して、ミナスジェライスの金鉱山が発展した。19世紀初めに、南部のリオデジャナイロとサンパウロで砂糖生産が拡大した。しかし、1830年以降、ブラジル南部でコーヒーが発展し、この地域が18世紀末にブラジルの全奴隷輸入の40%、1820年代に60%、1840年代に80%に達した。

ブラジルでは、1830年に奴隷貿易が公式には認められなくなったが、1850年まで、コーヒー生産のために公然と奴隷貿易が行われていた。

1850年、イギリスはブラジルに奴隷輸入の禁止を求めて、艦隊を派遣し、戦争がはじまった。ブラジルは敗北し、サントスやリオデジャネイロには北部の砂糖産地や南部の牛肉・皮革産地からの奴隷の移入で賄われるようになった。1865年に合衆国で奴隷制が廃止されたときには、主な奴隷保有国としては、ブラジルとキューバが残るだけとなった。

1871年に、ブラジルで奴隷解放のための法律が制定され、新しく生まれた子は奴隷とされなくなった。1888年に、最終的に、ブラジルの奴隷解放が実現した。

6.2 契約奴隷の導入

奴隷貿易の廃止の影響で、プランテーションでは契約労働者(年期契約奉公人indentured servantや苦力)が求められるようになった。彼らはアフリカ、中国、インド、インドネシアからやってきて、ほとんど奴隷のように働いた。

シエラレオネの解放奴隷や、海軍の拿捕で解放された黒人も契約労働者として、西インド諸島に渡った。黒人奴隷との区別をつけるのが難しかったので、この数はそれほど多くない。

キューバでは、1850年代に、中国人の苦力契約労働者(contract laborers)が移住するようになったが、当時、キューバは年間12千人の黒人奴隷を輸入していた。

6.3 小作制度

奴隷の中で、小作人になるものもいた。しかし、あまり成功しなかったようである。合衆国ではシェアクロッピングが導入され、プランテーションに取って代わられるようになった。

6.4 アメリカ以外の地域への拡大

アメリカ大陸の奴隷制度で生産されていた砂糖、棉花などの作物は、アフリカやアジアのプランテーションで栽培されるようになった。